冬の時代【3/28-29公演中止】 公演情報 冬の時代【3/28-29公演中止】」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
1-8件 / 8件中
  • 満足度★★★

    舞台美術は面白かったし、役者さんもよかったですが、この手の話は苦手です。

  • 満足度★★★★

    劇場と座席について。
    最前列のB列の2~3、21~22は舞台の袖でそれぞれ下手、上手が見えない。
    また、ステージが客席に向かって凸型に張り出し、中央部に柱2本とそれを繋ぐ梁がかけられ額縁のように設置されている。
    鴨居に首を括るシーンがあるので梁が必要なのは仕方ないが、
    2本の太い柱とそれに寄りかかるキャストの背中に阻まれて、前方の左右のブロックの全席は視界が遮られてしまい、
    第2幕で一番盛り上がる渋六と瓢風との激論シーンがなんと声だけしか聞こえない。
    前方は中央ブロック、または後方ブロックでしか正常に観られない状態でした。
    さらに、額縁状の枠の陰がスクリーンに映ってしまい映像やテロップが切れてしまっている。
    前方席だと喜んでいた方々は、幕間で一転、ことごとく柱が邪魔で見えないと残念がっていました。
    ちなみに急遽千穐楽が前倒しになり、中止公演からの振り替えの方をその見えない席に案内していたようで
    見えない席にお客さんがぎゅうぎゅうに詰められ、見やすい前方の中央ブロックはガラガラでした。
    舞台を作った方は客席からどう見えるのかを検証して考えてほしいと思うのと同時に、
    正常に観られない座席を同じ値段で売ってはいけないと思いました。

    劇中でいびきをかいて寝ている人、会話をしている人、咳をしている人が複数いたのが残念でした。
    どの舞台でも一定数こういったお客さんがいますが、静かなシーンが多かったのでやめていただきたかったです。
    特に咳をしている人に対してはスタッフさんが注意喚起のために幕間で声をかけてくれたらいいなと思いました。

    最初と最後に出てくる現代の少年。
    あの少年のマスクは果たして必要なのでしょうか。
    冒頭のスクリーンにも「マスクをかけぬ命知らず」というポスターだけが長い時間映されていました。
    そもそもこの戯曲で社会主義弾圧に抵抗する姿から現代の私たちに伝えたかったのは何だったのでしょうか。
    マスクをつけた意図が未だによくわかりません。
    ラストの渋六夫妻のしっとりとした余韻が、マスク少年の登場でぷっつりとかき消されたのがとても残念です。

    休憩込みの3時間超も気にならないほどお芝居は面白かったです。
    ただ、第1幕での瓢風とショーのキャラクターがかぶっていたのは残念でした。
    ショーの活舌が今一つで何を言っているのかわからず、第1幕は大声で怒鳴っているだけでした。
    渋六、ノギ、ニ銭玉は安定した演技で声も聴きやすい。
    奉公会とのコミカルなやり取り、瓢風との激論、飛び出していく売文社社員への悲哀など、
    渋六の演技はざくざくと胸に楔を打ち込まれました。
    渋六夫妻が無言で微笑み合うシーンは、互いに信頼し合っている様子が出ていてとても良かったです。
    元の脚本をほとんど変えていませんが、古さは全く感じず、むしろ真新しく感じました。
    キャストの多くは好演していてとても面白かっただけに、演技以外の残念な点が目立った舞台でした。

  • 私が座った列の席は5席あったのに、隣同士座って、あとの三席は空席。
    だったら1席空けて座るようにすればいいのに。
    と思いましたよ。

  • 満足度★★★★★

    終演後の拍手は鳴りやまず,最後は観客もスタンディングオベーション!これが全てを物語っている。素晴らしい舞台だった。ただ,休憩2回を入れて3時間15分の長丁場。観劇初心者にはきつかったのかも知れない。

  • 満足度★★★★★

    冒頭より演出的手腕がゴリゴリと迫って来る舞台である。紗幕裏の4本の枯木が照明に映え、冒頭、雪(芝居用と判る)が舞う。冬の時代のタイトルロールに等しい。次いで、「以下の文が舞台上に映し出される・・」という原作のト書きが、恐らく作者の手書き原稿だろう、白抜き印刷した映像で紗幕に流れて行く。ト書きを無視せず背景に使った巧い処理により、この戯曲が古典である事とそれを今再現しようとしている事が、さり気なく前置きされる。
    中央の張り出し舞台の前面に二本の柱(頂上にもう一本渡され、コの字を伏せた形。首を括れる)。黒褐色の卓、本棚、椅子などの調度が古色蒼然。
    若い俳優の起用は当初の方針であった由。若手二枚目が数名では役柄の腑分け(個体識別)に時間を要したが、俳優力に納得。演技・発語のテンションは鐘下舞台に通じ、青春群像の一つの解釈として受け止めた。
    3幕舞台の幕間休憩が2度。初めて耳にした作品だが、熱い台詞劇も木下氏は書いたのだと新鮮。戯曲の構成は見事で一幕は赤旗事件、大逆事件の衝撃冷めやらぬ中の売文社(堺利彦社長)内で、赤旗事件で捕縛されたお陰で大逆事件を逃れた面々による喧々囂々唾を飛ばす議論の最後、革命歌が飛び出し、やがて大合唱、「革命」の志を刻み、同志を失った無念を歌に乗せて身を震わせる男たち、そして馬鹿な男たちにもこの時だけはほだされる女たち・・暗転。

    木下順二の生きた時代なら自身が体験しただろう議論だけに「革命」が義たる事を大前提とした激論、分派化の必然の流れが見事に辿られ、目が離せない。初演された1964年はまだ政治の時代の渦中であった。
    直近では匂組公演で観たこの題材の芝居は多々あるが、この作品は大杉栄や荒畑寒村より年輩で、実社会を知る堺利彦を軸に据える。彼が「事の現実性」を語るときの感覚は、現代の私たちの感覚に近く、共感できる(これが時代が違えば又違うだろう)。じっくり腰を据えねば革命など見えてこない、人間はそれほど単純でない・・。
    現実的である事と、理想を持つ事とは共存でき得るはずであるところ、理屈・論理が勝つ若者には感覚的にしか認識できない「現実」を理解できず、非論理性を攻撃し分派して行く、という「運動」の典型的な軌跡がこの舞台にも。連合赤軍事件を見ないこの時代、作者は彼らの姿を青春群像として描き、演出もこの戯曲の狙いに寄り添いつつ完結させたと見えた。

    これは戯曲の問題だが、エンディング部分が長く、時代性かな、と思う。もう一つは、ちょい役が4人ばかりある中で、「主義者」の一人、渾名キリストという若者が最後に凶報を届けに登場するのだが、これに二枚目系を当てたのが私としては失敗。ちょい出は(他の役はそうだったが)一発で印象に残る個性派を配するべき。あるいは熟練の演技派でないと・・もう1エピソード始まるかと期待してしまった。

    それにしても客席の埋まり具合が非常に残念であった。料金高めの舞台ではあるが、、この時期とは言えかなりの目減り、演目のせいだろうか。。
    だが私としては、今この演目をチョイスした大河内直子の懐を思う事である。

    ネタバレBOX

    観てほしい舞台だったが28、29ファイナルまでの3ステージが中止に。悔しいことだろう。芝居どもども苦渋の思いをバネに良い仕事をして行ってほしい。(心情的にも随分肩入れしてしまったようで。)

    付記:座席の問題について書かれていたのを読んで。
    私の席は正にその問題の最前列サイドの見づらい席であった。見始めは「こりゃないな」と消沈しかけたが、開幕早々引き込まれて気にならなくなった(今の表情見たいと思う箇所があったが少し乗り出して確認)。逆にかぶり付きだからこその臨場感と感動であり俯瞰できたらさほどでなかったかも、等と解釈したような案配で、いやはや。
    (マスク少年の記憶がないのだが、、中止を余儀なくされた事への何らかの「表明」であった、とか。)
  • 二幕目が終了したあとに帰る人が結構いた。
    あと居眠りする人とか。
    私も少し寝た。

  • 満足度★★★★★

     流石に木下順二の脚本。骨太で日本の左翼の抱え込まざるを得ない根本的な問題を総て取り込んでいる。

    ネタバレBOX

    サンジカリズム等について触れられる際にも語られていることだが、労働者階級との実質的な連携の無い点は、象徴的にこの国の西欧文明・文化移入の特質及び限界をハッキリ示している、而もこの傾向は残念ながら現在に於いても延々と続いている傾向である。(例えば哲学研究などに於いても大学で哲学を教えている教授の大多数は、単に海外の新しい兆候を持つ哲学者及び著作の翻訳と解釈のみを行い己の思想を立てない。つまりヒトとは何か? 何処から来て何処へ行くのか? なぜ、生きるのか? 生きることに意味があるのか? 等々基本的で根本的な問いを自らの問題としては考えることができないので、総てのことが猿真似に終わる。結果、生活にも己の生き死にを賭けた深い問いに自らの全存在を賭けて答えようとする努力も問い続ける過程で発見できる実に様々な層や可能性についても無自覚で、その無自覚を恥じることさえできない。このような諸々の結果として捏ねる論理の根拠も浅薄で、形式論理さえ整っていれば、論理のオーダーが整ったと勘違いしてしまうから、其処から先は一瀉千里、論理の唯一の展開である先鋭化という道しか辿れないのだ。資本論にしてもカール・マルクス本人が厳しく批判したカウツキー版を翻訳している学者が出てくるが、この辺りも自分が指摘した問題は当て嵌まる部分があろう。また、仮にマルクスが日本に来ていたら、というような仮定を立てどんなことを先ず最初にやるか? と想像力を働かせ、培ってきた本物の思考を用いて社会の諸問題を先ず事実に即して徹底的に調べ、調べた結果を徹底的に分析した上で導き出された結論を如何様に解釈するか? という視点に立つならば自ずと歴史も変わる可能性が増す。)こういったことができなかった日本の左派の消長を描いているとはいえよう。
     舞台は赤旗事件(1908)大逆事件(1910)後、12月31日に設立された売文社(1919.3月迄)に集ったアナーキスト、コミュニストらのイデ闘や主義主張、官憲から睨まれるという共通性を通じ、また新たな女性を目指す青鞜の伊藤野枝などをモデルにしている人物が登場しつつ展開する。因みに千葉は堺利彦、官憲に追われ生活もままならない同士たちの生活を支える為に売文社を立ち上げた訳だ。あとは観てのお楽しみ。各観客の持っている知識や思考によって様々な観方のできる作品である。
  • 満足度★★★★

    五十年という歳月を改めて考えさせられる舞台だった。
    舞台の設定はほぼ百年前。木下順二が戯曲を書いて民藝初演がほぼ五十年前。そして今、この芝居を見る。
    すでに、この芝居の実録的背景になっている「大逆事件」は遠く。カリスマ的だった劇作家の作品は現実を打つ力よりも古典化し。今上演のスタッフキャストは平成令和の人々である。
    今の閉塞時代に、この舞台が、現実味を持ち、改めて上演の意義があるという政治的な見方もあるが、それは言ってみるだけであまり意味はない。時代は違う。この物語を今の現実の教訓にするというのは、つまらない教養便利主義だ。
    演出の大河内直子は、この戯曲を青春劇として読み直したようで、それはこの戯曲の一つの読み方であろう。この明治の青春劇の奥に、時代へ向き合う普遍的な若者像が見えてくるというのが狙いだ。ホリゾントに枯れ木の並木(現実)を配し、大きく空(青春)をとり、舞台前面に長方形の枠で舞台を隈どった舞台装置にもそれはあらわれている。二重に張ったスクリーンのおくに雪が降る「冬の時代」である。俳優たちを戯曲に沿って細かく動かしているのも計算が立っている。舞台の上の俳優たちを、まとめたり、ばらしたりする計算づくの動線は見事だ。絵になっている。改めて、木下順二はセリフがうまいなぁと感服した。さすが、言葉に生命を見た劇作家の作品である。
    しかし、それを実現するべき俳優の力が足りなかった。コロナ騒ぎで、稽古も浮足立ったのか、演出のつけている動きを自然に見えるまで消化していない。セリフも大声で口にするだけで、言葉になっていない。セリフは原文のままだから、やりにくいのはわかる。しかしそれをやり切って、明治のメディア青春劇を令和の観客に「今生きているように」見せるてこそ俳優というものだろう。渋六、くらいしか印象に残らなかった。3時間半、入りは7分。いいキャストで見たい。

    ネタバレBOX

    全くこの上演にとってはどうでもいいようなことだが、冒頭に出てくるインタナショナルは、確か、佐野碩が昭和になってから翻訳した歌詞で、この時代にはなかったのではないか。ひょっとすると旧訳かもしれないが、この曲自体、日本で歌われるようになったのは劇中の時代よりかなり後のように思う。まぁ、それでもかまわないのだが。

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