舞台芸術まつり!2025春

ウンゲツィーファ

ウンゲツィーファ(東京都)

作品タイトル「湿ったインテリア

平均合計点:26.2
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★★

結婚を巡るある男女の三角関係と、育児を巡るある夫婦の日常。そして、結婚、出産、育児というテーマに終始せず、そのさらに上の世代である親と子の関係や、その生い立ちから受ける影響にも眼差しを向けた快作、いくつもの手触りの「生きづらさ」や他者と生きる「ままならなさ」が濃密に紡がれた演劇であった。

ネタバレBOX

出産を控えるひと組のカップルジュウタ(黒澤多生)とチア(豊島晴香)が不動産屋の男(藤家矢麻刀)に新居の内見を案内されるところから物語は始まる。そこから結婚・家族生活が描かれると思いきや、早々に不動産屋の男がチアの元恋人・タクであったことが明かされる。さらにはジュウタの急死を機に、タクがチアとともに暮らし、ジュウタとの間に生まれたソラの父親になることを決意し、3人の新生活の様子が描かれていく。そこに訪れるのが、両家の母親。両家と言ってもチアとタクの母ではなく、タクの母・タナコ(根本江理)とジュウタの母・カキエ(松田弘子)であるからして、その鉢合わせを巡って状況はますます混沌を極めていく。ジュウタの死を受け入れられず、その喪失によってソラの存在が拠り所となっているカキエはやがて、ソラをジュウタとしてあやすようになる。そうこうしているうちにソラの体に亡きジュウタの魂が転移し、言葉を発し始める。一方で、タナコもまた「ソラは本当はタクとの間にできた子どもなのではないか」という想像に駆られる。さらにはチアとその親との不和も詳らかになり始め、3人の男女の三角関係から、それぞれが生い立ちによって背負った傷や葛藤、それがその後の人生に与えた影響が浮かび上がってくる…。

来る日も来る日も続く夜泣きからの疲弊、「子どもを宿し、産んだ」という実感を経て親になる母と、そうではない状況で親になる父との埋まらぬ価値観…。そういった、出産や育児という出来事がもたらす精神のバグや他者との不和や軋轢が(子どもを生み、育てている当事者としては)思わず「あるある」、「わかる」と言ってしまいそうな日常の一コマとして、リアリティを以て舞台上で展開される。さりげなくも綿密に練られたその会話と演出に作家・本橋龍の確かな技量を改めて見る思いであった。中でもポータブルスピーカーを赤子に見立てる演出は、その斬新さもさることながら、「家電に泣き声が宿る」といった点でまさに「湿ったインテリア」というタイトルを具現化していた点にも感銘を覚えた。(余談だが、私自身もかつて何をしても泣き止まない赤子の泣き声に狼狽え、スピーカーのようにその音が調整できたらと思った経験があった)

しかしながら、私が本作で最も素晴らしいと感じたのは、そういった「子どもを持ち、育てることの大変さ」がこの物語と演劇の核心ではなかった点である。
複雑に絡み合う人間関係の中でありありと浮かび上がってきたのは、「人をどう育てるのか」ではなく、「人にどう育てられたか」であったように私は思う。つまり、ジュウタとチアとタクの3人の親やその子育てをもに焦点を当てることで、本作は観客、ひいては社会に対してよりひらけたテーマを問おうとしていた気がしてならない。中でも印象的だったのが、カキエの愛情を存分に受け、手づくりの洋服を着せられて育ったジュウタが「愛されること、大切にされることの怖さ」を語るシーンである。親が育児に没頭できないことの罪深さだけでなく、親が育児に過度に没頭し、その愛と期待の重さによって子をがんじがらめにしてしまう様子には、一人の親として思わず背中が冷える思いであった。ソラを自分の孫であると信じたい二人の祖母の姿には、それ以前にタクやジュウタをどう見つめてきたか、どう見つめてこなかったかという母から子への関わり方や育児の履歴が忍ばされていたように思うのだ。家族や夫婦といったコミュニティにとどまらず、登場人物一人ひとりが背負うものへも視野を広げることで、「人間がいかに複雑な生き物であるか」という想像が観客へと手渡されていくようでもあり、シーンが変わるたびに、そこに生きるあらゆる人の背景に想いを馳せるような観劇体験だった。

河野桃子

満足度★★★★

愛というものの歪さ、生きることのままならなさ。それでも希望を託したくなる。

ネタバレBOX

「子どもが親にしてくれる」というようなことはよく言われますが、親になる準備が心身ともにできていない時に親になる人はきっと多いでしょう。合計5人の大人が親であることをもがく姿は、人は誰かの子どもであることをあらためて感じさせます。誰も彼も、様々な親を持ちその影響から逃れられない。新しいひとが生まれるという時に、そのことがじめりじめりと迫ってきます。

3世代、2家族。いずれの登場人物も価値観が異なり、なぜそういう生き方なのかの背景が見えていきます。それらが台詞によって織りなされている戯曲はとても巧みでした。
さりげなくも多層な台詞を、俳優たちがさらに深く立体的に立ち上げていきます。タク(藤家矢麻刀)の葛藤とエゴ、チア(豊島晴香)の自分の人生を生きようとするかたくなさ、カキエ(松田弘子)の喪失との向きあえなさと向き合い方、タナコ(根本江理)の自分と他者との折り合いの付け方、ジュウタ(黒澤多生)の他者と他者とを繋ぐ佇まい。すべての登場人物が優しく、わがままで、愛おしい。
音楽、美術、照明、音響が、横に縦にと空間を広げていて、リビングの天井を越えて、劇場の高さ4000とは思えない、ずっと宙遠くまで続いているように思えました。

それらの総合力で、もうなにがなんだか愛というものがよけいにとらえられない宇宙のような複雑さを見せていきます。
それでも、そのなかでたった一人だけ、言葉ではなく泣くことでしか自己主張ができないソラ。大人たちの抱える複雑さをシンプルにしてくれるような存在でしたが、ソラが自分で泣くことすらできなくなったときに、大人たちそれぞれの主張がハレーションを起こしていきます。
終盤、どこに行きつくのかわからないこの物語に、生きていると、他人は思い通りにならないし、自分自身にだって納得がいかない。後悔はそこかしこにあるし、どうなるのかもどうしたらいいのかもわからない……よなあ、きっと、幾つになっても、と思いました。
薄く折り重なる多層さゆえか、その場で宇宙へと放り投げられるようなインパクトやカタルシスがあるというよりも、数日たってじわじわと気配を感じさせる日常に潜む宇宙のようでした。観劇後も続くこの観劇体験が、今も心地よく胸にあります。

「再演をする」というところから話が始まったことは当日パンフレットでも明言されています。「Corich舞台芸術まつり!」の審査とは別の話にはなりますが、受付にたどりつく前から飾られた赤ちゃん用品や、子どもが生まれたばかりの夫婦のリビングを舞台にしたこと、スピーカーを用いた赤ちゃんなどは過去公演と同じでありながら、まるで別の作品でした。登場人物や焦点を当てられている部分は異なり、前回描かれた「演劇」の話題からは離れています。これほど似ていながら、これほど違う作品なのだと、面白くもありました。作品と創り手を離した改定に、確かな技量を感じた上演でした。

曽根千智

満足度★★★★★

ハートフル「昼メロ的ネオ愛憎劇」の先にある寄り添いの形

ネタバレBOX

誰の子かわからない1人の赤ん坊をめぐる、3人の母親と2人の父親の物語。赤ん坊を模したスピーカーは、その物体感と無機物な重量をもって、物語の重心を揺さぶっていく。ミステリーあり、コメディあり、家族愛あり、スリラーもあり、ホラーありの自由自在な脚本構成は圧巻。ノンジャンルを漂うこの質感はウンゲツィーファならではの持ち味。

最初は「赤ん坊は誰の子か」に焦点が当たっていたはずが、過保護な親に苦悩する男と、次男としての生き方を迫られる男の、実存の辛さ・耐えがたさの問題へと霧散するようにシフト。台詞を多重に解釈できるよう丁寧に手渡す俳優らの演技により、彼らの過去の物語が急に鮮やかに立ち上がってくる。どこまでも家族の話であるので、自分の親との関係に思いを馳せたり、友人に聞いた話を思い出したりと、観客ひとりひとりに立ち現れる情景があっただろう。それを客席に座り左右に感じながら共有できるという、孤独を慰めてくれる演劇特有の一体感が確かにあった。

演劇の見立てが多用され、ときにそれを逆手に取ってメタ演劇的に笑いを取りに行くシーンがあり(「あれは破天荒な夢だった」と振り返るところなど)、ふふふとこっそり笑えるラインに確実に乗せてくる脚本の巧みさが際立つ。これを成立させる俳優の演技の抜け感、場に揺蕩い続ける胆力がすごい。
舞台美術ならびに照明音響のスタッフワークも素晴らしかった。劇場に入る前のアプローチ部分から世界観を作り込み、空間を大きく使うと同時に細部にはこの後の展開に温かく違和を残す美術、子守歌の場面で浮かぶ星やハートのモチーフ、ここぞで一回だけ使う完全暗転、スピーカーの細やかな音量調整の妙など、各所スタッフワークの連携の光る公演であった。

(以下、ゆるいつぶやき)
「昼メロ的ネオ愛憎劇」とフライヤーにありドキドキしていたのですが、私の知っている昼ドラより、ちゃんとみんな誠実に相手に向き合って生きていて、いい人が多く、愛があってよかったと思いました。中学生当時、ちょうど大流行していた『牡丹と薔薇』(東海テレビ制作)を学校が休みの日に観て「みんな欲望に正直で怖すぎ!!」となり両親を信用できなくなったことがあります(多感な頃って何でも自分の家族に結び付けて疑心暗鬼になるってことありますよね)。そんな思い出もふいに過りました。観劇体験として興味深かったです。

深沢祐一

満足度★★★★

「新しい家庭を築くひとが直面する不条理」

 劇場入口へと至る階段脇には幼児向けと思しきちいさな靴と可愛げな装飾が施されている。受付を済ませ扉の向こうに目にしたのはダイニングテーブルにソファとどこにでも目にするようなリビングだ。タイトルの持つ不穏さに似つかわしくない数々に首を傾げながら開幕すると、けだし傷口をえぐるようなブラック・ホーム・コメディがはじまった。

ネタバレBOX

 不動産屋のタク(藤家矢麻刀)の案内で新居の内見に訪れたジュウタ(黒澤多生)とチア(豊島晴香)の間には、そう遠くない日に新しい命が産まれる。築年数に騒音対策、収納に立地条件にと新生活を夢想しながらほほえましい様子の二人だったが、じつはタクがチアと学生時代に交際していたことをジュウタが指摘すると急に妙な空気が流れる。

 半年後に生まれた娘のソラをあやしているチアのもとへ「ただいま、パパですよ」と帰ってきたのはなんとタクであった。育児ノイローゼ気味のチアは、おぼつかない手つきでソラをあやそうとしたり、まもなくやってくるという母親に預けて外出を提案したりするタクの軽薄さを鋭く咎めるのだった。そこへやってきたタクの母タナコ(根本江理)は「はじめまして」とチアに挨拶をしたものだからいよいよ物語の行方がわからなくなる頃に、じつはソラが生まれる前にジュウタが急死したことが明かされる。チアの立場を慮ったタクは二人で育てることを提案したのだが、この事実をタナコには告げていないためタナコはソラがタクの子どもであると誤解してしまっているようだ。

 このあとジュウタの母のカキエ(松田弘子)がやってきて事態はさらに混乱を極める。ソラを離さずこっそり持ち出したカキエはジュウタの喪失から立ち直れていないようで、あたかもじつの息子であるかのようにソラをあやし続けると、なんとソラが死んだはずジュウタになってしまうのであった。行き着く先の見えない物語のなかで、男女の三角関係とそれぞれが負った家族の物語も詳らかになる。親子とはなにか、子どもを持つとはどのようなことなのかという答えのない問いが我々観客に向けて投げつけられる。

 平易な台詞とどこにでもありそうな設定で不条理を描き、近年話題にあがることの多い反出生主義や親ガチャについて観客を問う本作は、親しみやすいながらも魅惑的な仕掛けが随所に施されている。観客の認識のズレを利用して物語に没入させつつ、それぞれの登場人物を深く掘り下げる丁寧な作劇にまず感心した。

 円筒形のブルートゥーススピーカーを赤ん坊に見立て、そこにソラやジュウタの声を重ねる演出もよく考えられたものである。一杯飾りながら上下に置かれた小道具を用いて部屋に屋外に、現在から過去にとスピーディな転換を実現することで、舞台が実に広々と感じられた。全体的にしっとりと、夜を基調とした照明変化も多大な貢献をしていた。

 作者の要求に応えるかのように俳優たちも充実した芝居を見せ、よく調和も取れていた。過保護気味に育てられ少年時代にいじめに遭っていたジュウタは、黒澤多生が演じたからこそ「子どもを持つことは親のエゴではないか」という問いかけに説得力が感じられたように思う。継母に育てられたためじつの子どもを大切に育てたいと願うチア役の豊島晴香と、やや軽薄だがチアを思うタク役の藤家矢麻刀はほどよい釣り合いといったところである。それに根本江理と松田弘子の演技合戦が、それぞれの母親としての立場を明確にしていた。

松岡大貴

満足度★★★★

賞賛はグランプリ評において行ったので、ここでは『湿ったインテリア』について考える中で連想したものを

ネタバレBOX

本作において「母」は、ある種の役割を超えて、舞台空間に強く立ち現れる存在でした。それは、制度や役割としての「母」ではなく、「この子を抱く」と自ら名乗り出る実存としての母。まるで、ひとつの関係を取り戻すようにして、あるいは、それが一度でもあったことを手放さないようにして、母たちは赤ん坊(=スピーカー)に手を伸ばす。誰の子でもないようでいて、それでも「私の子」であると抱きしめようとする。

また、その、赤ん坊=スピーカーの存在。
その「赤ん坊」は、誰の子でもありうるし、誰の子でもない。しかしその前で、人は無意識に声をやさしくし、目線を下げ、抱えるようにして関係を持とうとする。スピーカーに宿るのは、生物的な子どもではなく、「ケアの対象」としての抽象的な存在であり、それゆえにこそ、ケアする主体を観客は観る。見立ては、その表現において作品そのものを象徴しうるのだと興味深く思いました。

父たち(あるいは“家族”たち)は疑われ、混同され、すり替えられる。しかし母だけは、たとえ赤ん坊がスピーカーに過ぎないとしても、揺らがない。それはもしかすると、母性の絶対性などと言う前近代的なことでは無く、私たちの社会や感情が「ケアの起点」として母を記憶しているからかもしれない。
『湿ったインテリア』は、その記憶に触れながら、それでもなお「誰かに応答することのかけがえなさ」を残していく。その呼びかけは、観客に届いていたように思います。

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