舞台芸術まつり!2025春

劇団UZ

劇団UZ(愛媛県)

作品タイトル「牧神の星

平均合計点:23.0
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

愛媛県松山市を拠点に活動する劇団UZ。その拠点を劇場化した「アトリエhaco」の柿落とし公演として上演されたのが、本作『牧神の星』である。

ネタバレBOX

物語の舞台は1945年、若手将校を中心とした決起部隊に占拠されたとある放送所。しかしそれは劇中劇パートであり、2025年にとある地域で劇団を運営する俳優たちがその上演の稽古に挑む様子が同時に描かれる。

「歴史」を現代の視点から、また「現代」を歴史の視点から。時代を相互に往来する眼差しを通じて、都市部ではない地域で活動をする劇団の奮闘といった当事者性のある人間ドラマを交えつつ、生々しい実感を以て戦後80年という節目を縁取った作品であった。
社会における孤独や孤立、SNSの暴走、匿名で飛び交うヘイトコメントなども盛り込みながら、自身の劇団の現在地と社会や世界への懸念や疑問を一つの物語にぶつけたメタ要素を含む社会劇。また、そうした構造からさらに飛躍し、「過去」の過ちであったはずの戦争が実は「現在」と近い「未来」に起きている、という結末には今の世の中に対する危機感をもはっきりと感じた。 声を届けるための「放送所」という場の仕組みを活用した物語の流れや人間ドラマの抑揚も効果的であり、とりわけ声をあげるための場所で、声のあげられない弱い立場の人々が心身の危機にさらされていく描写は今日性のある喫緊の問題が忍ばされていると感じた。

本作において私が最も興味を惹かれたのは、やはり「戦争」を終わったもの、過去の歴史として描いていない点である。今の社会を見渡すと、それこそ戦前のような恐れを抱くことが日常的にある。そんな中で、「戦争」を単なる過去の過ちとしてのみ描くことはもはや不足を否めない。実際に世界では今もなお戦争は続いており、終わる気配もない。そうした状況下で戦争を「かつてあったもの」ではなく、「やがて始まるもの」として描いた点は、劇団UZという団体と時代との一つの対話とも言えるのではないだろうか。そのリアリティをより際立たせるべく、自身らにとって最も身近で普遍的である稽古場での日々を伴走させた点も理解ができた。

一方で、メタ演劇パートとなる稽古場や劇団のバックヤードを描いた箇所の強度がやや弱く感じられたのも正直なところであった。都市部ではない地域で劇団を運営する上での葛藤や苦悩、社会の矛盾などに触れることはできたが、その創作活動や表現活動が「戦争」という主題とどう繋がっているのかが見えづらく、予想を越えた演劇の風景には今ひとつ及ばなかったという実感が残った。
また、劇団を描く上で、いくつかの個人の物語をトピックとして盛り込む手法自体には好感を持てたのだが、そこにあまり広がりが見られなかった点も惜しく感じられた。戦時中の劇中劇で幸子、久保田、本多、頼子、尚子を演じたのがそれぞれ現代のサチコ、クボタ、ホンダ、ヨリコ、ナオコという設えになっているのだが、劇中劇のパートのそれぞれの印象が鮮烈であるだけに、現代を生きる個人の日々やその苦悩や葛藤が尻すぼみしてしまっていたように感じた。劇団以外に何で生計を立てているかということや、劇団に対してどんな不安や不満を抱えているかなど、膨らませようのあるリードは敷かれていたので、そこが粒立つことによって、時代との対話性はさらに強度の高いものになるのではないかと感じた。メンバーが個性的であるだけに、もう少し個人の背景に切り込んだ描写(※俳優個人の事実を盛り込むという意味ではなく、あくまで登場人物の造形として)があってもよかったのかもしれない。

とはいえ、地域性の持つあらゆる特質と向き合いながら、プラットフォームとなる場づくりに真摯に取り組む劇団の在り方には感銘を受けるばかりである。アクセス面での不便さや気候の厳しさを感じる観劇ではあったが、それも込みで、文字通り「山をひらいて場所を作る」ところから始まったこの公演に立ち会えたことは、これまでにない手触りの貴重な経験だった。

河野桃子

満足度★★★★

新たな場所がひらく。アトリエhaco前からながめた愛媛の街並みは、記憶に残る一枚となった。

ネタバレBOX

柿落としとなるアトリエhacoは、2024年8月に閉館した「シアターねこ」閉館を受けて、劇団UZのメンバーらによって立ち上げられた場所です。「シアターねこ」が四国・愛媛の小劇場の力強い拠点であり、UZの公演場所でもあったことで、演劇を続けるために稽古場として利用していた倉庫をhacoとして生まれ変わらせました。こうした新たな場所と、劇団/劇団員が苦悩する作品が重なり、現実とフィクションが層のように編まれていきます。

戦争と、それを演じる劇団員たち。虚構と現実を行き来する登場人物たちは、さらにそれを観る観客の現実とも呼応していきます。
自分たちの身近なところから手探る戦争や、演劇を続けることの身近な課題が描かれていますが、内輪に閉じてはしまわない。脚本は、現代のさまざまな社会問題や、未来の行く末など、多重な要素を地続きに描いていました。全編通して力強いこともあり盛りだくさんな印象もあるので、もうすこし力を抜くと見やすいようにも思いはしますが、むしろつねに高密度なことが切実さでもありました。その骨太な2時間を体現する、俳優の力強さに圧倒されました。
ラスト、チェーホフ『三人姉妹』を思わせるような女性3名の喪失と未来へのまなざしと抱擁。そこで一言発された生活に根差した台詞に、ブレのない、生きて演劇をいとなむことの実感があるように感じます。まだ不確定な未来を共にまなざすことができた気がする一瞬でした。

劇場外では、近隣の飲食店による出店、四国の様々な公演のチラシの展示や、舞台感想会の実施など、UZや演劇関係だけにとどまらないいろんな取り組みが開催されていました。
またチケット代金には、県外在住者割引、UZ割引(失業や休業、離職など何らかの理由で「観劇したいけど…」という方のための割引)などが設定されています。とくに県外在住者については、利用者も多いのでしょう。県外ナンバーの車を何台か見かけました。終演後には、シアターねこの閉館を惜しみ、アトリエhacoの門出を応援する人々の姿が。みなさんが他県から訪れ顔を合わせる様子に、場を持つことの希望を感じました。 hacoは山に入ったところの倉庫のため、劇場のような環境が整っているわけではありません。会場に辿り着くまでの道は整備された道路とはいえ狭い坂道で、展望台に行く人が迷い混むこともあるとか。トイレは自分でペットボトルから水を流すスタイルだし、倉庫内の気温調節は至難の業でした(夜は寒いと聞いていたが、まさかの昼が激暑でした)。しかし事前の案内や、トイレの備品などにはさまざまな配慮を感じます。
負荷のある環境ですが、まだ道は始まったばかり。「劇団公演」という言葉をこえて、この地にアゴラを作っていく過程に同席する機会をいただけたこと、ありがとうございます。

曽根千智

満足度★★★★

近戦争状態の現代を緊密に繋ぐ、虚実入り混じる戦争劇

ネタバレBOX

アトリエhacoのこけら落とし公演として行われた本作は、虚実入り混じる戦争劇。戦後、敗戦を認められない陸軍将校たちが国体護持を全国に伝えるため、反乱軍となって通信施設に押し入る。通信施設で交換手、通信技師として働いていた彼女たちは反乱に巻き込まれていく。という大筋の中に、本作を戸惑いながら稽古を重ね作っていく劇団員の悲喜交々のエピソードが劇中劇として挿入される。

このような虚実の混ぜ方は作劇法として確立しているが、劇団内の内輪ノリに終始してしまい見づらいことも多い。劇団UZも現実部分のテンポ感にもう少し緩急があるといいと思ったが、虚実の混ぜ方が多様かつ滑らかで、第二次世界大戦、現代に今まさに起きている戦争、また仮想空間内での近戦争状態(SNS内でのレイシズム、ナチュラルに日常に入り込んでくる優生思想、過激で過剰なインフルエンサー)の往還がとても緊密に描かれていた。愛媛の丘の上での上演を鑑賞するという私にとっての非日常相まって、終演後に眩しい日が差し込む様子に「みな、今を選んで生きていくのだ」とはっとさせられた。

正確に思い出せず恐縮なのだが、「自分がどうでもいいと思ってる時間の使い方が、まさに今の自分を形作っていく」という趣旨の台詞が印象的だった。忙しなく生活していると、ちょっとした休みについだらだらと動画やSNSを見てしまうことがあるが、そうした時間が知らぬ間に戦争の片棒を担ぐことがある。劇場はそんな自分を離れて、どうでもよくない時間を意識的に過ごす場であり、それを改めて思い直す鑑賞後感だった。

劇場前の(野外)ロビーにコーヒーやカレーを提供するキッチンカーが招かれ、開演前・開園後にのんびり過ごす来場者の姿を見て、こんなふうに身体を他者に開いて時間を共有するのが劇場の役割だったのだ、と改めて思い、にんまり嬉しい気持ちになった。

(以下、ゆるいつぶやき)
東京の小劇場だと、劇団主宰がプロデューサー(助成金獲得とキャスティング)と演出(だけではなく作劇責任)のすべてを兼ねている場合が多く、力が一点集中しやすいために、人間関係が難しかったり主宰を長期に渡り続けていくのに疲弊したりするのだが、『牧神の星』では主宰を思い切りなじる俳優の描写がクリアに描かれており、地方で活動する劇団はその意味では力の分散が上手く、いい意味で持ちつ持たれつなのだと、虚構入り混じる演目を見ながら思いました。その張り巡らされた個々の人間関係への眼差しが今回の演目を下支えをしているように感じました。責任がうまく分散していて、体力のある劇団っていいなあ。

深沢祐一

満足度★★★★

「地域の現実を描き国家を問う」

ネタバレBOX

 カーテンコールを終えた俳優たちは、松山大空襲後の荒廃した風景が投射された扉を開けた。その先に広がる松山の夜景を目の当たりにして、私は息を呑んだ。それはこの芝居がまさに現実かという切迫した内容だったからである。

 幕開きで車椅子に乗った老人(上松知史)が敗戦直後の8月24日に己が携わった事件を回想する。老人の若い時分である久保田少佐と本多中尉(黒岩陽斗)は、埼玉県川口市の放送所を占拠し、敗戦に納得できない同士たちに思いの丈を伝え決起を促そうとしていたのだった。ここで急に演出助手のホンダ(黒岩陽斗・二役)の声が入って一旦芝居が止まり、演劇の稽古場へと場面が移り変わる。そこにいる俳優たちのやり取りから、先の老人の回想は実際に起きた事件であり、それをもとにした新作の稽古中であったことがここでわかる。機密書類を処分すべく職員たちが忙しく立ち働いている場面の稽古が始まると、そこへ先程の久保田と本多がやってくる。職員たちはかつて演劇活動をしていた女子挺身隊員であり、軍人の恫喝に戸惑いを隠せない。必死に抵抗していた頼子(林幸恵)や尚子(川崎樹杏)をそばに、戦争で恋人を失った幸子(汐見玲香)は久保田たちの願いを聞き入れようとするのだった。

 こうして80年前の事件と稽古場の様子が描かれながら舞台は進んでいく。自らと同じ名前の役を与えられた俳優たちは80年前の事件に距離を抱きつつ演じているようだ。挺身隊員を演じているサチコ(汐見玲香・二役)は「今回の話って、未来の話っぽいて思ってる」と感じているらしい。ホンダは軍人役を演じるために座長のクボタ(上松知史・二役)にビンタをされたと言い、ヨリコ(林幸恵・二役)に訝しがられる。稽古の合間の他愛のないやり取りから浮かび上がるのは、俳優たちの演劇活動と日々の暮らしである。近隣の劇場が閉じ正職の傍ら演劇活動に勤しむ俳優たちは、周囲からの心無い言葉に傷ついている。恋人との間で波風が立っているナオコ(川崎樹杏・二役)は最近体調が思わしくないようで、わざと稽古場に居残って年長のヨリコに胸の内を明かす。新作を書きおろした作・演出家は稽古場には頻繁に現れず、やや独裁的で身勝手な振る舞いが目に付く人物らしい。賑やかながらも少しずつ荒んだ雰囲気の稽古場の俳優たちはじょじょに虚構の世界に絡め取られ、やがてサチコが予見したかのような光景が現実化してしまうのだった。

 劇中劇の手法を用いて虚構と現実を重ねて描く作品は数あれど、本作はきな臭い昨今の世界情勢と敗戦時の光景を重ねつつ、地方劇団の置かれた境遇を描いた点が独創的である。作り手にとって演劇活動が切迫したものであるということを思い知らされたし、身を削るような思いで歴史と日々の生活を総括しようとした姿勢にまず胸を打たれた。80年前と現在の時間軸が行き来しながら、合間に俳優たちが羊の被り物をして牧神(山野と牧畜をつかさどる半人半獣の神)を演じる不穏な光景や、ヘイトスピーチやネットの誹謗中傷といった現代の諸問題を挟み込むという込み入った作劇はやや盛り込みすぎという感もあったが、目線がブレることなく結末まで進んでいく作劇が見事であった。ただ冒頭で介護士が老人になった久保田にビンタをしたり、終盤で爆撃の描写があるなどの点は事前のアナウンスがあったほうがよかったように思う。

 作・演出の課した高いハードルに果敢に応えた俳優たちの熱演も見事である。80年前と現在の同じ名前の役ながら、自身とは距離のある人物をいかにして演じるかと苦悶する姿や、稽古場で時折見せる本音が俳優自身と重なって見えて生々しい感触がした。特に上松知史は80年前の理性的だが内面には熱情がトグロを巻いている久保田少佐と、その晩年の老いさらばえた具合、そしてやや間の抜けた座長のクボタや日本人の外国人観を揶揄するクルド人青年などを演じ分けており圧巻だった。

松岡大貴

満足度★★★

未来を作る場所から、過去が立ちあがるか

ネタバレBOX

アトリエhacoという新たな拠点のこけら落としとして、地域に根差した劇団が新たな一歩を踏み出したこと、その決断と行動力には大いなる敬意を抱いています。都市部とは異なる環境で、観客とともに場を育てていこうとする姿勢は、演劇の根源的な価値と向き合う行為でもあり、まずはその一点に拍手を送りたいと思います。

物語の中核をなすのは、敗戦を受け入れられず通信所を占拠しようとする将校と、それに巻き込まれる女子挺身隊員たち。だがこの「物語」は、現代を生きる俳優たちが稽古を通じて演じることで立ち現れる仕組みになっており、登場人物の多くが本人と同じ名前を与えられている点や、演出家への不満を語る場面を含め、フィクションとノンフィクションの裂け目を俳優たちが自らの身体で渡り歩いていく様は、近年の演劇の傾向を意識しつつも、十分機能していました。

その上で、今回劇中で描かれる「稽古場でのやりとり」や「劇団運営上の内輪的な関係性」がどこまで必要だったのかについて、疑問が残りました。虚構と現実を交錯させる構造は古くから用いられてきた技法であり、それ自体が悪いわけではないのですが、どうしも話の軸が複数になるため、一つ一つの場面は映像作品のように断片的になりがちです。
また、作品の主軸となる戦争と現在の接続についても、いくつかの描写がその切実さを削いでしまっていたように感じました。黒電話や軍服といった記号的なガジェットが登場する場面では、どこかで「これは演劇の中の戦争」であるという演出上の距離が生まれてしまい、現代との断絶を埋めるどころか、むしろ際立たせてしまっていた印象すらあります。現実と虚構を地続きに描こうとするならば、その“演出上の嘘”をどこまで突き詰めるか、あるいはどこまで意識的に裏切るか、演出の選択がもう一段あってもよかったかもしれません。

作品が歴史と向き合いながら「今ここ」を描こうとする意志は伝わっています。
ただし、その意志が形になるためには、劇団という共同体の物語や、あるいは記号的な演出ではなく、表現したいことに相応しい新たな表現方法があるはずです。アトリエhacoが、その創作と様々な試作の大切な場所となることを願っています。

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