舞台芸術まつり!2025春

南極

南極(東京都)

作品タイトル「wowの熱

平均合計点:25.0
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★★

メンバー全員が本人役として出演、オール劇団員キャストで送るSFメタフィクション。

ネタバレBOX

一人ずつがその名を呼ばれ、客席後方より舞台へと上がっていく冒頭の“登板”から、本作の役や物語が現実に侵食していく様を描いたクライマックス、そして、劇団や演劇、俳優そのものの当事者性を問うラストに至るまで、一貫して現実と虚構の横断を生々しい“熱”を以て描き切った意欲作。それらを全員野球ならぬ全員演劇によって力強く叶えた作品であった。

一人ひとりの粒立った個性と存在感を明示するかのような連作コントを経てから『wowの熱』といった物語(すなわち本題)に突入する、という構成も会場の“熱”を高める上で効果的に機能しており、さらにはその連作コントで散りばめられたあらゆる伏線が後々本題の中で回収される、という鮮やかな連結にも作家、俳優、そして劇団そのものの表現力が光っていたように思う。
また、当日パンフレットの文字の大きさが非常に見やすく、かつひと目でキャストの名前、配役、そして顔写真によってそれらが一次情報のみで照合できるように作られている点も素晴らしい。 「スマホで調べたらわかる」と言われたらそこでおしまいだが、それが困難な観客も中にはいる。また、「素敵な俳優やスタッフに出会った時にその名前を覚えて帰りたい」という観客の気持ちやライブ性に寄り添った工夫も評価の一つに値する。

平熱が45度を越える中学生・ワオ(端栞里)を中心に繰り広げられるSF青春劇のパートでは、SF超大作を下敷きにテクノロジーの暴走を描いた『(あたらしい)ジュラシックパーク』や、恐竜の絶滅をテーマに青春の終焉と世界の終末をともに立ち上げた『バード・バーダー・バーデスト』などの過去作で確立した手法や見せ方が首尾良く活用されており、一つの作品として遜色のない独自の世界観に仕上がっていた。

しかし、私が最も心を打たれたのは、その終着点の見えかけているファンタジーにあえて切り込みを入れ、そこから先のまだ見ぬ冒険と挑戦に乗り出した点であった。
人と違う特性を持つワオやチャーミングなキャラクターたちの関わりや寄り添いを通じ、多様性や他者理解といった今日性を忍ばせながら、愛らしく切ない青春群像劇として完結させることもできたであろうところに「待った!」をかけ、文字通りその上演を舞台上で一度中止させることで本作はメタ演劇へと舵を切っていく。
そこから描かれるのは、『wowの熱』という公演がワオ役の端栞里の発熱によって中止となった後の世界線。スタッフをも舞台に上がる演出や劇団が赤字回収に悩む様子、メンバー同士のやりとりなどの“バックヤード”のリアルな側面を見せつつも、「だから劇団って大変なんです」といったある種のナルシズムな展開や結末を辿るのではなく、突然変異的に登場人物に俳優が、演劇に日常が侵食されるといったもう一つのSF展開を用意することで、物語や演劇を未知の領域へと飛躍させていた。そんないくつもの入れ子構造によって観客を鮮やかに裏切り、想像以上の世界へと誘っていた点に私は劇団の発展力を確認したのである。

そして、何よりその複雑な劇世界を劇団員フルキャストだからこそ叶えられる一体感と連携を以てして実現させていたこと。それでいて「身内ネタ」や「身内ノリ」に終始せず、そのマジカルなまでのグルーヴに観客をも取り込み、舞台と客席を越境し、相乗した熱気を生んでいたこと。それこそが本作の最たる個性と魅力であったのではないだろうか。それらは演出や演技といった劇の内側だけでなく、手づくり感の溢れる美術や小道具などの外側にも発揮され、細部に渡って抜かりがなかった。南極の持ち味である、群を抜いたデザイン力の高さを以てハード・ソフト面ともにますますの磨きをかけた力作。今後、南極という劇団がどう変化していくのか。本作に立ち会った観客がそんな待望を抱くに十分な作品であったと思う。

河野桃子

満足度★★★★

WOWの熱、舞台の熱、客席の熱、公演の熱。すべてが熱かった。

思い返せば、小劇場というものに出会った数十年前、こんな熱気の虜になった。
現実とフィクションが入り乱れ、個が強くありながらも集団でしか行けない場所へ。「劇団」というものの成せる熱狂が、劇場の外にも充満していた。

ネタバレBOX

物語は、南極の劇団/劇団員と、劇中の演劇とが重なり、さらにそこで上演される作品、そして作品のなかの登場人物の……とメタフィクションの構造になっています。その構造が仕組化されていくまでの前半は演劇としては冗長にも感じられましたが、よく練られていて楽しみました。
しっかりと組み立てられている一方で、後半、勢いと情緒的なカタルシスで押し進められるように感じられるきらいもありました。俳優個々のパワーが強いからこそよけいに、粗くともその荒波に飲み込まれていく……この力技が爆発力を持たらしてもいるのですが、もうすこし「その展開なぜ?」という部分を緻密に組みたてていられれば、安心してのめりこめるだけでなく、観劇の興奮についての曖昧さが減りより深く確実に刻まれる体験となったように思います。けれども、少なからず客席からも舞台上にむけて熱風が送られており、ともにこの公演をさらなる高みへと昇らせていました。その劇団としての総合力はなにものにも代えられません。
その熱気は上演だけにとどまらず、公演最終日にかけては、当日券を求める人たちが集まっていたようです。客席には観劇がほぼ初めてだろう人も見受けられ、「期待感」という空気もまた熱気となっているように感じました。

俳優の名前と役名が重なるなどの構成もあり、作品単体を観るというよりも、劇団「南極」の第7回本公演として観ることでまた違った魅力を感じる公演だとも思います。同時代を生き、リアルタイムの生身に触れ、ともに日々を進んでいく。そんな劇団公演の魅力が詰まった舞台です。
ワオ/端栞里が演劇に出会ったように、南極の劇団員がここに集っているように。それが思わぬ出会いだったにも関わらず、鮮明に記憶され、気づけば人生を変えてしまうことがある。そんなことを思い出し、端栞里(※役名)の語りに導かれ自分の人生を旅する瞬間もありました。メタフィクションの構造にすることによって、役に共鳴するだけでなく、役者や劇団に共鳴した人もいたかもしれない。作品だけでなく、劇団として観客に突進してくるような今作には「よし、南極という船に乗ろう」と思わせる力強さがあります。

作品からすこし話がそれますが、ときに劇団公演には、作品における俳優のポジションやキャラクターが固定化していくことによる楽しみがあります。今後、ポジションやキャラクターを強化していくのか、それとも変化させていくのかで、楽しみ方が多少なり変わるかもしれません。南極がどういう選択をし、どこへ向かうのか。それすらも共に時間を過ごし楽しみを味える、今の小劇場における海賊船のような存在の行く末にわくわくします。

曽根千智

満足度★★★★

メタフィクションを上演する俳優と戯曲の信頼関係とは

ネタバレBOX

演劇のメタフィクション性を扱った本作。軽妙な台詞回しと程よく力の抜けたギャグ、俳優の必死さと対をなすどこか手作り感ある美術が「これは難しいことをやろうとしているぞ」と観客が入れ子構造とその反転に気付く中盤からさらに効いてくる。決してチープではないのに、手の届くところにいてくれる頼りがいに寄せて、すっと劇世界に誘い込む手腕が見事。初めて演劇を観る人をも取り残さないだろう。ポジションが発表される登板シーンから、余力を一切残さない「全員演劇」の疾走感は清々しい。客席から笑い声が飛ぶ。それを追い風に一気に共犯関係に持ち込むだけの劇団の強い引力が感じられた。

こんにち博士の浮遊感のある演技が気になる。最初からひとりだけ劇世界の外側にいるような存在感を放っており、今回のテーマであるメタフィクションの演出に大いに貢献していたように感じた。美術のセンスがとてもいい。ブラウン管の無機質さ、ふわふわのマストドン達、食事の匂い、プールやお湯の湿度、それらの質感の多様さが複雑に絡み合って情景を作り出しており「観客も呑気に客席には座らせない、あなたの想像力にもフルで働いてもらう」という気概を感じた。

若く体力のある劇団ながら、勢いだけで押さず、きちんと丁寧に稽古を重ねて作られたことが客席にも伝わり好感が高い。一方、虚実が入り混じるというメタフィクションを扱うときに、演出脚本俳優が諸共「役に入れ込みすぎた」という理由で冷静さを欠くという筋書きなのが、エモーショナルさが過剰な気がして、形式と内容がちぐはぐな印象を拭い切れなかった。例えばもっと物理的に睡眠不足である、上演への不安が高じて、あるいは役の整合性が取れないなどのサブの動機があればすんなり納得できたのかもしれない。『マッチ売りの少女』が虚構の世界に行く際に、夢見るだけでは足りず極限まで空腹であることが必要なように、身体感覚に訴える何かしらの説得力がもう少しあれば観てみたかった。

(以下、ゆるいつぶやき)
上演における俳優の権力は客席が想定するより実は強大です。演出家はみな、俳優が上演中に突然「はい!これは全部嘘です!おもしろくないです!ここで演劇やめます!」と言い出す悪夢を見たことがあると思います。俳優にはその力があり、舞台上で台詞を喋ってくれているのは単に今時点での信頼関係と口約束の話であり、次の瞬間には霧散してしまう儚さと隣り合わせ。波のある人間が集って芸術をやる以上、毎日上演が想定通りに行われること自体が、ほんとうに綱渡りの軌跡です。ですから、今回のワオのように倒れて上演中止になり、虚実が入り混じり、表裏が曖昧になった世界に漂うような感覚は、演劇に携わる人がみな感じたことがあるのではないでしょうか。現実世界の中なのに「なにいまの発言、台詞っぽくて気持ち悪い」と咄嗟に思って口を噤むような、その覚束ない奇妙さと真実味に迫ろうとした今回の挑戦はとても眩しかったです。そんな今日、OpenAI「GPT-4.5」がチューリングテストに合格したというニュース。すぐ隣に「本物っぽい」と「嘘っぽい」が並ぶ今を我々はどう泳ぎ切るのかに思いを馳せました。

深沢祐一

満足度★★★

「虚構に取り憑かれる実演家たち」

 作・演出のこんにち博士が腕によりを振るった戯曲を、劇団員たちが絶妙のチームワークで立体化した力作である。

ネタバレBOX

 開幕すると冒頭から数本の寸劇が続く。ハンマーでブラウン管を壊そうとする俳優とダメ出しする演出家とのやりとりがまず笑いを誘う。つぎにその二人がお笑いコンビとなり、ビジネスマンからいかがわしいカバンを売りつけられそうになる。この場面を描いた絵画を飾った先史時代のゾウの一家が食卓を囲む様子になったかと思えば、そのゾウをイメージした毛皮をまとったモデルにデザイナーが文句をつける。前の場面を連想させるような奇妙な寸劇の連続がまず面白い。

 ようやくはじまった本編では中学生の主人公ワオ(端栞里)と仲間たちとの青春模様が描かれる。彼らは教員の海パン(井上耕輔)に水泳の補修を受けさせられたとき誤ってプールに落ちてしまうのだが、そのときプールが急に沸騰してしまう。ワオが45℃と高い平熱を持っていたからである。プールの温度はしばらく高いままだったので、彼らは「ワオ熱湯」なる銭湯を開こうとするのだった。

 このあたりになると戯作者で演出家のこんにち博士による指示出しが始まり、やがて一旦芝居が止まる。すべては虚構のなかの話であり、現実同様に劇団南極が『WOWの熱』という芝居の稽古を進めている最中だったことがここで分かる。ワオを演じる端栞里は役に入れ込み過ぎてしまい、役の設定よろしく自身の平熱がグングンと上がってしまい、ついにはその場に倒れ病院に運ばれてしまうのだった。病院を抜け出したワオは、呪術に詳しい共演者の九條えり花の助けで映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』よろしく、同じく共演者のユガミノーマルとともに車に乗り込み、こんにち博士の虚構の世界へと旅立つ。そこで起きた空間のねじれにより、冒頭の寸劇にも出てきた温室でしか生きられないホットハウスマン(瀬安勇志)ら虚構のキャラクターたちを現実へ招き入れてしまう。公演を打とうとしていたが端の降板により中止を余儀なくされた南極の劇団員たちの悪戦苦闘ぶりを描きつつ、現実と虚構が次第に混在して摩訶不思議な世界が展開していく。

 戯作者による創作と劇団員たちの奮闘を並行に描く本作は、虚構が入れ子構造で何重にも層を成している。ただ新作の芝居を作ったというよりも、その新作に取り組もうとしている劇団を、そして創作の過程で生まれた副産物としての虚構を描くという、ナマモノとしての舞台芸術の魅力と危険な魅惑に満ちた作品である。手の込んだギャグや先行作品のパロディなど、作者が腕を振るった台詞は客席を沸かせており、それに応えた劇団のチームワークと鮮やかな展開は特筆に値する。先史時代のゾウや体を乗っ取られたボクサーなどが立ちはだかるなか、ワオがホットハウスマンと対峙する場面のいかがわしい禍々しさ、バカバカしくもキラキラとした輝きは忘れがたい。

 ただし本作の設定が満場の客席の理解を得るものだったのかは疑問が残る。冒頭に置かれた一連の寸劇は、戯作者が劇団員たちに、見ず知らずの他人のフリをして新作を作るためのワークショップの成果だったということが中盤で明かされる。こうした手の込んだ設定によって劇団員たちが混乱した結果虚構と現実が乱れだしたという企図なのかもしれないが、少なくとも私はその設定に馴染むことはできなかった。混乱の元凶たるこんにち博士の戯作者としての葛藤や錯乱を描く場面もあったが、端とワオに入れ込みすぎた場面の思わず胸のつかえるような絶叫以外は狂言回しの役割が強かったため、自然作中での存在が薄まってしまった。そのため端の芝居も熱演であるがどこか一本調子で振れ幅が小さいように見えた。終盤でワオがこれまでの来し方を振り返りながら他の登場人物たちの過去のやり取りを絡ませつつ、最後にこんにち博士と同時にクラップするところなど鮮やかな展開だっただけに悔やまれる。手数は多くアイデアは豊富なだけに、他の登場人物を含めた心の動きをもっと感じたいと思った。

松岡大貴

満足度★★★★

きっと、これからもっと熱くなる

ネタバレBOX

南極『wowの熱』は、いわゆる「メタフィクション」という構造を生かした、劇団と俳優と観客の関係性に対して正面から挑んだ一作でした。

寸劇の応酬から始まり、プールから湯気が立ちのぼるように立ち上がってくる本編の構造。それはまさに稽古場という虚構から生み出された虚構の俳優たちを、観客にそのまま差し出すような手触りでした。

特筆すべきはやはり、ホットハウスマンをはじめとする“虚構の住人”たちが、現実の劇団員たちと混ざり合いはじめる後半の展開。その可笑しみと、同時に奇妙な居心地の悪さが、まさに劇世界と現実世界との境界を撹乱していて、作品の主題そのものを身体的に味わわせてくれたと思います。

その熱がじゅうぶんに立ち上がっていただけに、クライマックスの“端栞里が南極に入団した経緯”を辿るような場面は、やや別のベクトルの熱に切り替わってしまった印象を受けました。劇団の成長譚と重なり、まさに今の南極だから描ける場面とも思います。ただ一方で、個人的には、現実に虚構が滲み出してくるあの奇妙で危険な興奮が、ふっと一度着地してしまったような感覚も否めませんでした。あの熱を、もっとホットハウスマンたちとの交錯のなかに持ち込んで、最終盤まで転がしていってほしかった。そこに、もうひと段階の“熱狂”の可能性があったように思います。

とはいえ、劇団そのものが持つ空気の温度、あるいは観客との距離感、ある種の信頼感のようなものはまさに“熱”を帯びていました。勢いに任せるのではなく、構造的な挑戦と演劇的身体の同居を目指す姿勢に、確かな地力を感じます。
何かが起こる予感は、間違いなくあります。

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