舞台芸術まつり!2025春

世界劇団

世界劇団(広島県)

作品タイトル「零れ落ちて、朝

平均合計点:21.4
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

グリム童話の『青ひげ』を下敷きに、「戦時中に医学の進歩のために行われた生体解剖」という医者の功罪に着目し、生命倫理と人間の尊厳を問う意欲作。主宰で現役医師である本坊由華子ならではの着眼点や提題が忍ばされた代表作の一つである。

ネタバレBOX

俳優の身体に多くのことが託された本作において、その強度を確かなものにするためには相当な思考と鍛錬が必要であったと想像ができる。リフレインされる台詞やシーンが回を増すごとにより鮮明な風景として立ち上がり、同じ言葉を同じ言葉に聞こえさせぬ、同じ風景を同じ風景として見せぬ俳優の表現力と演出の工夫に引き込まれた。そうしたリフレインはやがて、同じ悲劇を繰り返してしまう人間の愚かさや、今もまさに世界で続いている暴力や戦争、その功罪を握らせていく。同時に、それらメッセージを「再演」というある種のリフレイン的試みを通じて、社会や世界に広く伝えようとする姿勢にも意気込みが感じられる作品だった。

医師としての功績を確かなものにしようと、患者を「人」ではなく「材料」として扱う青山(本田椋)の横顔には人命を救う医師の矜持のかけらも残されておらず、むしろ人命を奪うことで自身の地位や名声を挙げようとする独裁者の執心が色濃く滲む。しかし、それでいて平静を保っていられない彼の振る舞いには(肯定こそできないが)ある種の人間らしさが残る。「罪の意識が皆無ではない」ということが加害の生々しさをより詳らかにしていくように感じたのだ。そうした後ろめたさや不都合な真実を無効化するかのように、青山は妻(小林冴季子)に城の床を清く白く保つようにと命じる。青山のそばに罪をけし掛ける大佐(本坊由華子)という存在がいることもまたリアルな構図であり、こうした罪に手を染めた人間が決して一人ではなかったという医学界の世相、歴史の闇を切々と物語っているようでもあった。

劇中で、俳優の身体よりもその影が舞台側面で大きく映写される演出があり、私はその瞬間に最も引き込まれた。実体の見えないもの、つまり隠された罪をいくらなかったことにしようとしても、それらには必ず影が付き纏う。光の加減によって人物そのものよりも大きなものとして現れる影は、戦争犯罪の罪深さを、ひいてはこの世界に起き、今もまさに隠されているかもしれないあらゆる加害とその大きさを象徴しているように思えてならない。それらが「演劇」でこそ表現できる光と音、そして俳優の身体を駆使した風景として浮かび上がってくる様に私は本作の強度を感じ取った。他にも舞台上に侵食していく水や、頭上から降ってくる砂といった「片付けることの困難なもの」、「痕跡を拭い去ることが容易ではないもの」が多用されていた点も興味深かった。水に濡れた体はすぐには乾かないし、砂のついた身体からその粒子を全て取り除くのは難しい。「見えにくい罪」、そして、「語られにくい罪」を詳らかにするという意味で効果的な演出が随所に忍ばされていたところにも演劇の力を感じた。

一方で、言葉なくして鮮烈な感触を伝える俳優の身体の説得力が長けていただけに、発せられる台詞が時として宙ぶらりんになる瞬間があったようにも感じられた。観客に場や時の緊迫を伝播するフィジカルの力が強まる反面、詩的なモノローグや言葉遊びなどのテキストの魅力がもう一歩届きづらい構図になっている節があった。言葉と身体のバランスが首尾良く整理されていることによって見やすくはなっているのだが、多少ぐちゃっとしていても、言葉の飛距離が想像を越える様を見たかった、という気持ちになったのである。とはいえ、真っ先に言及したように本作の最たる挑戦はおそらく身体表現によって見えないものを浮かび上がらせる点にある。そうしたフィジカルシアターに「言葉の力」を過度に求めること自体が果たして正しいかわからない。その葛藤を前置きした上で、言葉が意味するところをつい追いかけてしまったことを観客の一人の実感として記録しておきたい。

河野桃子

満足度★★★★

観劇にいざなう説明文では「シロかクロか、そのどちらか」と問われている。モチーフのひとつであるグリム童話『青髭』と、医師の戦争犯罪が重なっていく。

ネタバレBOX

童話と同じく、青山という男(本田椋)のもとに娘(小林冴季子)が嫁いだばかりの頃から始まります。娘は、舞台中央にある扉だけは開けてはならぬと言われており、それ以外の屋敷をすべて美しく掃除しなければいけません。娘は屋敷を美しく磨き白く保とうとしますが、結局、その黒い扉を覗いてしまいます。 白い屋敷のなかにある、黒い扉。その扉の向こうでおこなわれている行為はいわばクロ。加害行為を知ってしまった時、そこに立ち向かわなければその人はクロでしょうか、シロでしょうか。「白くありたい」と言う娘ですが、扉の奥の秘密を知る前から黒い衣装をまとっている彼女はを見ると、娘の背負う「クロ」とはなんだろうかと考えてしまいます。
嫁いだ娘が家じゅうを掃除する行為は、家父長制の象徴のようでもありました。それは、国に従い戦争行為に望まざるとも加担してしまった市民、という構図にも重なります。

寓話と史実を、小林冴季子のやわらかだけれどハリのある身体性と、シェイクスピア『マクベス』の三人の魔女のような近所の市民たちが繋いでいきます。本田椋は加害者の内面の矛盾や苦悩を体現し、バネのような身体がこわばり今にもはじけ飛びそうに見えることも。

本作冒頭では、娘が観客を作品世界へ誘います。そのため、さまざまな加害とその罪が描かれ、クロとシロが入り乱れるなかで、「加害を目撃する」あるいは「はからずも加害の共犯になる」という娘の立場についてをもうすこし深く覗いてみたくもありました。たとえば客席でなんらかの物語を「目撃している」ということに作用があれば、加害についての多重的な構造を体感としてより実感できたかもしれません。
しかし客席との接続という意味でいえば、中央の台が八百屋になっていること、それを伝う水などは効果的であったと思います。今回、わたしは3都市ツアーのうち、広島のJMSアステールプラザで観劇しました。会場によって美術も違うとのことで、それぞれどのような影響をもたらしているのか気になります。

第二次世界大戦の終結から80年。日本あるいは日本人が行った(被害をともなう)加害は、今の私たちの世界とどう接続しており、どんな未来へと繋がっていくのか。劇中には「人を殺して許されるはずはない」という台詞が出てきますが、その価値観はいつ誰のどんな背景によって信じられ、疑われうるものなのか。現代に上演するからこそ、演劇をとおしての過去との接続が未来に繋がっていくといいな……そう願ったのは、広島で観劇したからかもしれません。劇場からほんの数分歩き、原爆ドームをふくむ平和記念公園がいやおうなしに目に入る頃にはあらためて、加害と被害は地続きで、傍観と加担もまた切り離せないことを考えました。

初めての場所での観劇。施設入り口から会場にたどりつくまでに迷ってしまったので、開催室名や階数、矢印、誘導などの案内があるとありがたいです。

曽根千智

満足度★★★

罪の意識から「潔癖」を問い直す

ネタバレBOX

外科医の青髭、GHQの影、九州大学生体解剖事件。それぞれのテーマがとぐろを巻いて舞台上で蠢くような臨場感あふれる作劇であった。白い砂を降らせ、舞台面を水浸しにし、客電が意味ありげに明滅する中で、音圧の強い音楽とリフレインを多用する戯曲の言葉が客席の身体的な緊張を高めていた。戦時下で「死んでいいとされる命はあるのか」と激しく問い続ける3人の俳優の説得力のある身体は、挑戦的な本テーマを扱う表現の骨子となっていた。

強い身体の説得力を持つ一方で、モノローグを多用し客席とのインタラクションが少ない構成上、作劇としては第四の壁を強く意識させられる劇構造ではあった。場面転換に差し挟まれる3人の老婆のシーンは、舞台を客観視して離れようとする観客を繋ぎとめる手として有効に作用していたものの、抽象的な台詞で綴られるシーンが続くがゆえの浮遊感がうまく客席側の姿勢と接続している個所とそうでない個所があったように思う。いっそ完全に台詞を排して、ダンス作品として上演できるのではないかと夢想した。

(以下、ゆるいつぶやき) 「戦時下のような特殊環境で命の処遇を決めるとき、そこには白黒つけられないダイナミズムが働いている。しかし、人としての正義を失ってはいけない」というメッセ―ジは圧倒的に正しい。ただ、個人的に、演劇は正しさを描くのがあまり得意でないメディウムなのではないかと思っている。それは、正しさを描くにはあまりに演劇が遠回りをしたがる性格ゆえなのだが、今回の演目に関してもその難しさを感じた。青髭に名前があり、背景が描かれ、娘との結婚に際した葛藤が描かれていれば正義が色付いてみえたのかもしれない。登場人物の個別具体性を極力排したのは台詞を減らしたいという演出目的上あえてであったと思うが、演劇という媒体で正しさを語るバランス感覚について考える上演だった。

深沢祐一

満足度★★★

「人間の尊厳を問う物語」

 現役の精神科医として医療現場に携わっている作者が、太平洋戦争中にアメリカ軍の捕虜に生体解剖を施した「九州大学生体解剖事件」と、グリム童話『青ひげ』をモチーフに創作した2023年初演の再演である。

ネタバレBOX

 波音と鳥の声が響き渡るなか、上演がはじまると奥から娘(小林冴季子)が出てきて観客に向け身の上を語り始める。娘はちいさな山のうえにある城に青ひげを生やした男に嫁され、いつも床を白く磨くようにと命じられていた。城のなかには入ることを禁じられた部屋があり、そこで男はなにかよからぬことをしていると街の人々に噂されているのだ。部屋のなかを知りたいという誘惑に負けた娘が扉を開けた先に目にしたものは、おびただしい数の死体の山だった。

 やがて青山という男(本田椋)がやってきて自らの仕事について語り始める。医師である青山は弟子(本坊由華子)とともに病気の患者にリスクの大きい施術をすることで、他病院よりも大きな実績をあげようと躍起になっていた。しかし度重なる失敗で患者はことごとく死に至り、そのことを隠蔽しつづけてきたのである。青山は保身のため娘に城の床を拭きつづけろと命じていたことがここでわかる。やがて大佐(本坊由華子・二役)がやってきて、無差別爆撃を行った敵兵の捕虜を生体解剖しないかと青山に声をかけ――開戦から戦中、そして敗戦へと移り変わる激動の時代のなか、次第に娘と青山は狂気の世界へ足を踏み入れていく。

 本作の特徴は説明的な台詞を極力廃し、似たような場面を繰り返し反復しうねりを作りながら展開することで、観客を登場人物の感情移入させやすい作劇を採用した点である。また何役か兼ねる俳優がゴツゴツした荒っぽい動きや振りで台詞を述べることで、感情の波が視覚的にも豊かな情報として舞台上に再現されていた。当初は穏やかだったSEも次第にノイズまみれのそれに変転していく。いわば音楽劇や舞踊劇に近い感触の作品である。場面が進むにつれて同じ台詞でもまったく異なるニュアンスで聞こえる発見もあった。

 舞台を観ていて私はシェイクスピアの『マクベス』を想起した。己の名声を求め道を誤る青山と脅迫的に汚れた床を拭き続ける娘の様子もさることながら、3名の村人たち(出演者3名が兼役)の会話が時代背景や青山夫妻の状況を客観的に説明する役割を担っていた点は、マクベスに予言し今後の展開を示唆する荒地の魔女たちと重なって見えた。くわえて、ダジャレのような台詞や、「よくわからぬことはよからぬこと」(これは娘の台詞だが)に象徴される倫理観を根底から揺さぶろうとする作者の意図も、荒地の魔女の「きれいは汚い、汚いはきれい」に重なって聞こえてきた。

 加害の物語を書くことで戦時に近い状況にある現代を問うという作者の主張は明確であり、そこに熱演が加わることで並々ならぬ思いはひしひしと伝わってきた。とはいえ一点に向って進んでいく物語は図式的であり安全でもある。最後にぽつねんと座る性も根も尽き果てた青山の姿は、私にとっては舞台中盤からある程度予測ができるものであった。加害に至らざるを得なかった人物の背負ったものもぜひ見たかったと思うのは望蜀だろうか。

松岡大貴

満足度★★★

表現することと、表現する方法について

ネタバレBOX

『青ひげ』と九州大学生体解剖事件。寓話と歴史、記憶と倫理。その接続を試みた本作は、白砂と水に覆われた象徴的な舞台空間と、強い音圧の音響設計、リフレインを多用する演出によって、観客の身体そのものに訴えかけるような上演になっていました。

本田椋さんは、苛立ちや後悔を踏まえ、抑制された語りと佇まいの中に役の内面をしっかりと感じられ、作品全体のトーンを下支えしていたと思います。また、小林冴季子さん演じる娘も、台詞と動きを過不足なく繋げながら、彼女自身の身体の律動で役を立ち上げており、説得力のある存在でした。

一方で、語句の反復や抽象的な台詞を通して物語を展開しようとする意図は感じられたものの、登場人物の具体性が削ぎ落とされていたために、感情の推移や関係性の変化が劇の進行と噛み合わず、構造的な面白さと扱う内容が微妙にずれているのではと感じる部分もありました。とりわけ「正しさ」や「加害の倫理」といった重いテーマに触れるのであれば、物語構造や人物の厚みには、より慎重な設計が必要だったのではと感じます。

もちろん、前述の通り舞台美術、音響、照明といったスタッフワークは魅力的で、過剰な主張に走らず、空間としての強度を確保していた点は特筆されるべきです。
例えば、前言を否定しますが、ある種の美や劇的な表現が理屈を超えてテーマを伝えることもあります。それならば、その例えば殴りつけられるような衝撃を観客に与えるべく振り切る、といった選択肢も、このスタッフ、そして世界劇団でならあったのではと思います。

また、世界劇団は首都圏以外の地域で活動する劇団として、ツアー公演を実施するなど制作面でも評価される部分があると思います。この精力的な活動や、ある種のパワーは、劇団運営や自らの創作活動を継続させるという視点において他のアーティストも学ぶべき部分があると思います。

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