舞台芸術まつり!2025春

あまい洋々

あまい洋々(東京都)

作品タイトル「ハッピーケーキ・イン・ザ・スカイ

平均合計点:21.8
丘田ミイ子
河野桃子
曽根千智
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

高校時代に行方不明になり、その数年後に白骨死体で見つかった「ちぃちゃん」を巡って、卒業後はそれぞれの道を歩んでいる同級生や友人などが各々の立場から「ちぃちゃん」とその人生に起きた虐待の被害や凄惨な結末、そして、されども彼女が生きていた「生」とそんな彼女と過ごした「時間」を見つめる、見つめようとする群像劇。

ネタバレBOX

「見つめようとする」とわざわざ言い換えたのは、本作の伝えたいことがそこにこそ詰まっている気がしたからである。その点においてキーとなっているのは、「ちぃちゃん」と彼女を巡る事件を取り巻いているのが直接的に関わりのある知人や友人のみではない点にある。

「ちいちゃん」の事件は一部マスコミにも注目され、ライターの高務(櫻井竜)が読者の好奇心をそそるような文体で記事化しており、その取材活動をきっかけに散らばったかつての同級生が数年ぶりに繋がる、という流れがあった。さらに、時を同じくして同級生の一人で映像作家として活動する乙倉(松村ひらり)は、「ちぃちゃん」を題材に自身の監督作品を撮ろうとしており、同級生たちに聞き取りを行っていた。
この二つの出来事を巡って、“取材”に協力的である人間と反発を覚える人間に分かれ、それがそのまま「ちぃちゃん」との関係の深さを意味するところとなっている。

こうした場合、上記に挙げた2名のような人物は分かりやすく悪人のように扱われることが多いように思うが、私が本作で心を打たれたのは、その存在が複雑ながらも一つの希望や祈りとして描かれていたことである。無論、当初はその取材や映像化に異論や反発が飛び交い、「当事者でない人間が当事者の人生を消費すること」についての会話や議論が交わされていた。しかし、結果的に本作は「当事者でなくてもできること」に手先を伸ばし、やがて「当事者でないからこそできること」までを手繰り寄せようとしていたように思う。その過程の時間は、不在である/不在とならざるを得なかった「ちぃちゃん」という一人の人間を、人生を、そしてその消費を見つめようとする行為に他ならないのではないだろうか。

作・演出、そして、ちぃちゃん役として出演した主宰の結城真央さんはご自身が虐待サバイバー当事者であることを開示した上で本作の創作に取り組んでいる。この事実が作品に与える、それこそある種のインパクトのようなものは大きいかもしれない。しかし本作はその経験をただ生々しく描くのではなく、もう一歩先の景色を掴もうとされていたように思う。
あらゆる作品の題材として、虐待やその被害が時に“甘いケーキ”のように“おいしく”消費されてしまうこと。その暴力性に抵抗を示すと同時に、虐待サバイバー当事者でありながら同時に表現者の一人でもある自身が今見つめるべきことに手を伸ばされているように感じた。
「当事者じゃないからわからない」と言って黙ることで傷つけずに済む人がいることも確かだろう。しかし、「当事者じゃないからわかりたい」と声を重ねることに救われる人もいるかもしれない。そういった物語や人物の眼差しに観客として気付かされることも多かった。

ちぃちゃんと同じ境遇であった仁子(チカナガチサト)の痛みが同期したかのような表情、同じくらいちぃちゃんと交流が深く、現在は児童養護施設で働く綾瀬(松﨑義邦)の戸惑いを隠せぬ振る舞い、そしてちぃちゃんが夢中になったアイドル、レモンキャンディ(前田晴香)の極めて解像度の高いアイドルパフォーマンスなど、俳優陣の表現力も高く、かつ随所に散りばめられたギャグや小ネタも観客がシリアスな題材を受け取る上で効果的に機能していた。一方で、全員が一堂に会すシーンでは観客を引き込むのにやや苦戦している印象を受け、個人としての技術が高い一方で、集合した際の場の説得力のようなものにもう一歩不足が感じられた。そのあたりに今後飛躍する可能性と期待を寄せつつ、開示と思考の痛みを伴う創作にカンパニー一丸となって乗り出されたことに、一人の観客として敬意を示したいと思った。

河野桃子

満足度★★★★

ちぃちゃんが消えた。8年後白骨化した遺体が見つかり、ちぃちゃんの死をめぐってさまざまな人たちが登場する。一緒に児童養護施設で育った友人から、学校の友達、話したことのない同級生、そしてまったくの他人であるルポライターまで……ちぃちゃんとの距離感はさまざまで、それぞれがちぃちゃんに現実/虚構を問わずなにかを重ねている。

ネタバレBOX

ちぃちゃんについて取材する2人が、「見る/見られる」という外側からの眼差しを体現していることに、空恐ろしさと希望を感じました。

「真相をあきらかにしたい」としながらも自分の主張にちぃちゃんを当てはめていくルポライターの高務(櫻井竜)と、まったく仲良くもなかったのにちぃちゃんを弔うために事件を映画化しようとする同級生の乙倉(櫻井竜)。高務はその暴力性・搾取性におそらく自覚的で、乙倉は無自覚なのでしょう。
いずれも口では「誰かのために」と言いながら、それは善意の顔をして「自分の思い描くように、自分のやり方で世界を整えたい」というエゴにも見えます。ほかの登場人物もそうで、若尾颯太演じる同級生なども、自分のやり方で主張を押し通すための明るさが怖くもあります。

人はなにかを発信しようとするときに、誰かを消費しえます。それは人権かもしれないし、存在かもしれないし、心かもしれない。では、対象となる人に対して誠実に向きあえばその暴力性はなくなるのでしょうか。そうとは言い切れないように思います。世に出す、ということは、受け手が存在する。「これを発したい」という時に発信者は、受け手のことをもまた消費している可能性があります。
そういった「見る/見られる」だけでなく「見せる」という構造についても視野にいれるには、高務の思いではない個人的な背景がより示されると、群像劇として立体的になるのではないかと感じました。また、乙倉の変容はこの現実の先に光をともすものであるため、その変化の様子がもうすこし見たくなりました。そうれば、乙倉が選択した未来のその先に他者とともに社会を生きるヒントが見えてくるのではないか、劇場を出た後にもこの作品を携えて明日に進めるのではないかと、勝手ながら期待してしまいます。

また、劇中では、アイドルのライブシーンが登場します。本物のライブ会場のようなインパクトに残る楽しいシーンでした。一方で、アイドルという名のとおりまさに「偶像」によるライブの完成度が高く見ごたえがあるほどに、客席にいる自分自身のもつ消費性について居心地の悪さが募りました。誰かに偶像を押し付けられるちぃちゃんが、偶像に安らぎを見出している皮肉もまた、人間の側面なのでしょう。

俳優みなさんが力強く魅力的でした。パライソに集まる人たちのやりとりは軽快で作品のハリがきいていて、かつて高校生だった頃の3人には灰色の校舎の隙間から青い風が吹くようでした。
舞台美術照明、場面転換などもシームレスにメルヘンと現実を繋いでおり、とくに美術のケーキが形を変えてその中身が見える時には、隠していたものが暴かれる居心地の悪さがありました。ショートケーキの中にあるイチゴって、まわりの生クリームに甘酸っぱさが滲んで、甘いだけじゃいさせてくれない。甘くも酸っぱくもあるケーキを見ないものとせず、カットして「一緒に食べよう」と言えることが、生きることかもしれません。暴力性や搾取性など多方向からの視線を描くときに、会話による構成で物語が進むと、より甘さと酸っぱさとそして苦みが口から離れない作品になったように思います。けれどもこれを書ききった胆力と切実さ、ともに体現していくチームの強度に、優しく逞しい未来が見えるようでした。

曽根千智

満足度★★★★

「不在=そこにないもの」への眼差しは外から見えるのか

ネタバレBOX

本作を観て、当事者演劇はやはり鑑賞者に安定したポジションを渡してはくれないのだと思い知った。本作には、それぞれに「ちぃちゃん」と異なる関係性を結び、それぞれ独自の当事者性を持つ登場人物が描かれているが、そのどの役柄も自分と同じ立場から「ちぃちゃん」の死を眺めてはくれない。観客は不在の「ちぃちゃん」を想像し、そこに自身の当事者性を投影する。それは中学校時代に途中で突然学校に来なくなったあの子かもしれないし、学校帰りに声をかけてくれたあの子かもしれない。それは決して誰にも見えない架空の関係性であり、本作はそういった記憶への意図しない漂流を押し進めてくる上演のパワーがあった。

「ちぃちゃん」を演じる結城真央さんの演技が印象的。所作や発言が唐突だったり、人との身体距離が妙に近かったり、プリーツを気にせず座ったり、その振る舞いが虐待サバイバーだからという説得力を持ってしても意識化されていないと演じられない小さな動作のひとつひとつが、たしかに記憶に「ちぃちゃん」がいたという実体を描き出している。不在への眼差しを観客と同一にするために、キーとなる演技を冗長な部分なくクリアに表現されており好感を持った。

全編通して小気味のいいギャグや歌のシーンが、本作の緩急をつけ、群像劇の終局に向けて集中線を引いている。それゆえに、俳優の演技の中での発話の滑舌と集中の持続力が気になった。この人数が出てくる劇構造上仕方ない部分ではあるが力みすぎた説明台詞が多い点と合わせて、今後の作品創作に期待したい。

(以下、ゆるいつぶやき)
ちょうど同時期に藤野知明監督のドキュンメンター長編『どうすればよかったか?』を鑑賞し、当事者が記憶を記述し表出することの圧倒的な力強さと、例えばこれをもって「やはり当事者に勝る表現はないのだ」と主張する根拠に使われてしまうと嫌だなという気持ちが交錯しました。当事者にしかできないことがあるのと同様、当事者以外だからこそできることもあるからです。本作の乙倉は映画監督を目指していますが、まさに当事者とは遠いところから「ちぃちゃん」を追いかけようとしており、劇中では何度も拒否されます。もし私が乙倉の友人だったら「そのへんで一旦やめといたら。それはあなたもつらいでしょ」と声を掛けるかもしれない。乙倉の理解されなさに気付いてケアしてくれる人が登場人物にいてくれたらな、とぼんやり考えたりしました。

深沢祐一

満足度★★★

「さまざまな『暴力性』を総括する群像劇」

ネタバレBOX

 「今ね、秘密の部屋を作ってる/その部屋ではなんでもできるの、誰にも邪魔されない、誰にも脅かされない。私だけのとっておきの場所なの」

 父親から虐待を受け児童養護施設に入っている七原千波(結城真央)は、近い境遇にあった同級生の新田仁子(チカナガチサト)にこう打ち明けていた。このあと千波は行方不明となり、8年後に彼女の白骨死体が見つかる。虐待を受けた女子高生はなぜ死ななければならなかったのか。千波を取り巻く人々の邂逅が、誰しも持ち得る「暴力性」の是非を我々観客に突きつける。

 千波の事件を追うルポライターの高務(櫻井竜)は、現在は荻窪のキャバクラ「パライソ」のキャストとして働く仁子や黒服の音弥(平林和樹)らに接触し、インターネット上にセンセーショナルな記事を投稿している。他方で千波の元同級生のひとりで駆け出しの映像作家の乙倉(松村ひらり)は、事件を題材に映画を作ろうとして元同級生たちに連絡を取り始めていた。千波と友人関係にあり現在は児童養護施設で働く綾瀬敦(松﨑義邦)は、乙倉から取材を申し込まれ戸惑いを隠せない。元同級生たちの間に広がった波紋は少しずつ重なり、やがて千波が好きだったアイドル「レモンキャンディ(前田晴香)」に結びつくことになる。

 事件の真相を追い世に出す高務と、千波を弔うために事件を映画化しようともがく乙倉を見ていると、マスメディアの公共性や表現が持つ暴力的な側面を考え直さざるを得ない。自身の体験をもとに創作活動をしている作者本人が己を総括しようとするこの真摯な主題に、私はまず心を打たれた。寝た子を起こす行動が他者の古傷をえぐることになりかねないことはもとより、千波の元同級生たちのなかには、思いやりのつもりでかけた言葉が千波を傷つけることに繋がったのではないかと悩む者たちがいた。ジャーナリスティックな視点に加えコミュニケーションなど社会心理学的な視座を感じさせる意欲的な作劇である。高務のライターとしての苦悩や、職員の視点から感じた児童養護施設の生活を敦に語らせるなど、主要人物の心のうちを独白させることで多面性を出そうとしていたことにも好感を持った。ただし作者の主張が明確すぎるため、考え方の異なる登場人物による対話のズレよりも合致地点へ収束していく過程が見えすいてしまい、図式的になってしまった感があったことは指摘しておきたい。

 作者自身が手掛けたケーキを模した台の舞台美術をうまく使い、家、キャバクラ、ライブ会場、児童養護施設などテンポよく転換する鮮やかな手つきも本作の魅力である。前田晴香による実物のアイドルさながらのパフォーマンスや、唯一の部外者であるパライソのキャストのタルト(百音)による夜の店の悪ノリなどが、ややもすれば観続けることがしんどくなりそうな場面で息を抜く役割を担っていた。

 当事者の取材や関連資料を相当に読み込んだうえで創作した形跡が伺える一方で、児童養護施設の仕組みや日本の福祉の問題点を台詞で説明してしまうなど、学んだことをそのまま出してしまっている箇所が散見していた点は残念である。そして登場人物が多くその一人ひとりが雄弁であるため、作者の明確な主張の方向へ進んだ結果やや説教臭くなってしまった感もあった。パライソに全員が集結し千波の事件について対話するくだりでも十分な重量があったが、そのあとに後日談がついたことで感興が削がれてしまった。作者が書きたいことを詰め込んだ結果だとは思うが、もう少し削ることもできたのではなかったか。

 些末な点ではあるが、高校時代の千波が児童養護施設の職員に作ってもらったと喜んで開けた弁当箱をひっくり返してもなんの反応もしなかったり、終盤のパライソの場面で音弥がシャンパンコールを切り出すくだりでフッと緊張が抜けるなど、役の性根とズレたアクシデントが目についた。いずれも初日ゆえのことだったと思いたい。

松岡大貴

満足度★★★

真実ですら不安定なものであるとしたら

ネタバレBOX

白骨死体として発見されたちぃちゃん。その存在をめぐって、かつての同級生たちや報道者、創作者がそれぞれの立場から発語を試みるたびに、フィクションとノンフィクション、記憶と忘却の境界が揺れ動く。その構造が、語りの暴力性や“正しさ”の持つ不穏さを浮かび上がらせていたように思います。

また、本作は俳優陣が印象的でした。
ちぃちゃんを演じた結城真央さんは、その孤立や違和感を丁寧に刻み出していました。ひとつひとつの印象に残る仕草は、けれど過剰になることなく、あくまで“かつてそこにいた誰か”を静かに想起させるものであり、それが観客にとっての想像の手がかりとして機能していたように思います。
また、アイドル・レモンキャンディを演じた前田晴香さんのパフォーマンスは、作品の中で唯一華やかさを担う存在でありながら、その場に漂うどこか不穏な気配を背負って立っていたように思います。平林和樹さんが演じる音弥と百音さん演じるタルトは、作品の緊張感が高まるなかで、少しだけ呼吸を与えるような間合いと軽やかさを舞台に持ち込んでおり、劇の緊張を一度解体するような大胆さがありながら、その破綻がどこか哀しみと背中合わせであることを踏まえた造形だと感じました。

作品全体としては非常に真摯に、多くのリサーチの痕跡が伺えました。
ただその一方で、説明台詞がやや多く、また時折すぐには理解しにくい場面設定もあり、抽象的な描写と現実的な作り込みをもう少し細かく判断しても良いのではと思いました。
作り手の切実な思いが強く伝わるからこそ、観客に委ねる余白や、登場人物たちの声として自然に立ち上がってくる言葉の質感を、もう一段階繊細に編んでいくことで、作品世界により深い説得力が生まれるのではないでしょうか。

けれど、“語ること”をめぐる倫理と、それを担う人物が丁寧に舞台上に現れていた本作は、今後の展開を楽しみにさせてくれる一作でした。

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