「目が死んでいる」「ファミコンレベルの視界だ」——演出家の容赦ない言葉が稽古場に響く。
台本を読み、感情を磨き、発声を鍛える。それだけが演技の稽古だと思っていたら大間違いだ。ある劇団の稽古場では、眼球運動の専門的なトレーニングが行われていた。俳優たちが鍛えているのは筋肉でも滑舌でもなく、「目」そのものだ。
この記事では、演劇の現場で実践されている視覚トレーニングの全貌を、稽古場の熱気とともにレポートする。演技を志す人はもちろん、ビジョントレーニングや身体パフォーマンスに興味があるすべての人に届けたい内容だ。
現代人の目は「片目」しか使っていない
話は、演出家による衝撃的な指摘から始まった。
「君たちは、正しく両目を使えていない」
人間の目には「利き目」がある。利き手があるのと同じように、多くの人は無意識のうちに利き目に頼り、もう片方をサボらせている。さらに問題を深刻にしているのが、現代のライフスタイルだ。スマートフォン、パソコン、テレビ——私たちが日常的に見ているほとんどのものは「平面(2D)」だ。
長時間にわたって平面を見続けることで、脳は「奥行きを把握する」という処理をさぼるようになる。演出家はこれを「単眼視的な状態」と表現した。単眼視の世界には奥行きがない。それはちょうど、ドット絵のゲームのように平面的で、空間の立体感が欠落した世界だ。
演劇は違う。舞台は三次元の生きた空間だ。相手役との距離、観客席との距離感、劇場の奥行き——それらをリアルタイムで把握するためには、「両眼視機能」が不可欠になる。
両眼視とは、右目と左目がそれぞれわずかに異なる角度から同じ対象を捉え、その「ズレ(両眼視差)」を脳が統合することで、立体的な空間認識を生み出す仕組みのことだ。この機能が正しく働いているとき、人は初めて「空間の深さ」を感じることができる。
「寄り目もできない」俳優たちの現実
理論の説明が終わり、いよいよ実践チェックへ。演出家が求めたのは、シンプルな「寄り目」だった。
ところが、これが驚くほどできない。
「右目は寄っているのに、左目が逆方向を向いている」「寄ろうとしているのに、なぜか目が引っ張られる」
本人は必死に指先やペンを目で追おうとしている。しかし眼球が言うことを聞かない。これは、いかに日常生活のなかで目を動かす筋肉(外眼筋)を使っていないか、そして脳が「両目を協調させて対象を捉える」という処理をサボりきっているかを如実に示している。
演出家の言葉は厳しい。「君たちの見ている世界はファミコンレベルだ。奥行きがない」。だがこれは精神論でも比喩でもなく、眼球運動の機能的な問題として提起された話だ。立体的に見えていないということは、相手役との心理的距離や、緊迫したシーンでの空間の圧力を感じ取れていないことと同義なのだと。
科学的アプローチ:「ブロックストリングス」で視線を可視化する
精神論で終わらせないのが、この稽古場のユニークな点だ。導入されたのは「ブロックストリングス」と呼ばれる視機能訓練の器具だ。
仕組みはシンプルだ。長い紐に色のついたビーズがいくつか通されており、俳優は紐の一端を鼻の頭に当て、もう一端を誰かに持ってもらって張る。そして手前・中間・奥と、異なる位置にあるビーズを順番に見つめていく。
正しく両眼視が機能していれば、見つめているビーズの位置で、左右の目から伸びる視線が交差して「X字」に見える。しかし片方の目がサボっていると、紐が一本のまま見えたり、交差の位置がずれて見えたりする。
「紐が2本に見えていますか? X字に交差していますか?」
稽古場では、この地味に見えて過酷なトレーニングが延々と繰り返された。自分の視線が空間のどこで交わっているかを「目に見える形で確認する」作業——これは俳優が自分の視覚の現状を客観的に知るための重要なプロセスだ。
「サッカード」と「フィクセーション」——演技を支える眼球運動の二大技術
トレーニングが進む中で、演出家は2つの専門的な眼球運動について解説した。
ひとつはサッカード(跳躍性眼球運動)。ある点から別の点へ、視線を素早く移動させる動きのことだ。複数の登場人物がいるシーンで、話している相手へ瞬時に視線を向けるにはこの精度が問われる。
もうひとつはフィクセーション(固視)。対象をじっと見つめ続け、視線を安定させる動きだ。相手の目を見つめて感情を伝える場面や、重要な小道具を凝視するシーンで必要になる。
この両方を高いレベルで使いこなすことが、舞台俳優には求められる。しかし稽古中の俳優たちは、視線を動かすと行きすぎてしまったり(オーバーシュート)、止まろうとしても目がプルプルと震えてしまったりした。
「眼球が滑らかに動いていない」「止まるべき場所で止まれていない」
演出家はこれを「目が死んでいる」「意思が伝わらない目」と表現した。台詞を覚えるだけでは到達できない、眼球レベルの身体訓練がここにはある。
混沌の稽古場:アンパンのヒーロー、腰あんか粒あんか問題
理論と科学的トレーニングの後、実践のエチュード(即興劇)へと移った。しかしそこで展開されたのは、シリアスな訓練とは似ても似つかない光景だった。
題材は、国民的アニメヒーローのパロディ。「私の顔をお食べ」「新しい顔よ!」というお馴染みのセリフを、大人の俳優が真顔で演じる。しかも演出家の指示は「目は常にトレーニング通りに使え」だ。
ヒーロー役は、瀕死の仲間に向かって自分の頭部(という設定のなにか)を差し出そうとする。その一連の動作の中で「両眼視」の課題がのしかかる。正確な距離感で駆け寄り(空間把握)、相手の目を見つめ(フィクセーション)、新しい顔を受け取るために視線を素早く移動させる(サッカード)。
さらに劇中では哲学的な問いが飛び交った。「中身はつぶあんなのか、こしあんなのか」「なぜ自らの肉体を他者に供するのか」。
「それは腰あんではなく、粒あんだ!」と絶叫する俳優の目は、必死に相手を凝視しようとして寄り目になり、焦点が定まらずに泳ぐ。「目が泳いでいるぞ! 意思を持って見ろ!」と演出家の怒号が飛ぶ。まわりの俳優たちからは笑いが漏れるが、演じている本人は本気だ。このシュールさこそが、この稽古場の真骨頂だった。
社長一族の愛憎劇で問われる「輻輳」と心の距離
続いて展開されたのは、一転してシリアスな家族ドラマだ。巨大企業の社長、その妻、反発する娘、娘の婚約者が登場し、企業の不正・過去の罪・政略結婚という重厚な物語が展開される。
ここで演出家が解説したのが「輻輳(ふくそう)」と心理的距離の関係だった。
相手に詰め寄るとき、威圧するとき、目は強く内側に寄り(輻輳し)、焦点が一点に集中する。逆に、自信がないとき、心が離れているとき、視線は拡散し(開散)、焦点が定まらなくなる。つまり目の動きは、意識していなくても心の状態をリアルタイムで伝えてしまうのだ。
娘役の女優は全身全霊で父に抗議した。利き目を凝視し、瞬きを減らし、強いフィクセーションで感情をぶつける。対する社長役は、冷酷さを保つためにあえて視線を外したり、素早いサッカードで相手を値踏みするような鋭い視線を送ったりする。
だが稽古が進むにつれ、俳優たちの限界が見え始めた。シリアスなシーンの最中、ふと素に戻った俳優が「目が痛い……もう寄り目が維持できない」と漏らした。感情の昂ぶりと、眼球の物理的疲労との戦い。それが演技の質を左右するという現実が、ここでは剥き出しになっていた。
「首を固定するヘッドロック」と、精神的崩壊寸前の俳優たち
目の筋肉だけを鍛えるため、演出家はついに物理的手段に出た。俳優の頭を両手で固定(ヘッドロック状態)し、首を動かさず目だけで指先を追わせるのだ。
人間は何かを見るとき、無意識に首も連動して動かしてしまう。しかしそれでは眼球のトレーニングにならない。「首を動かすな! 目だけで追え!」固定された俳優から「痛い!」「首が吊る!」という悲鳴が上がる。
稽古の終盤、疲労困憊した俳優たちに「はい、もう一回」「まだ目が甘い」という言葉が続く。「もう無理です」「帰りたい」——冗談めかした言葉の中に、本音が混じっていた。
それでも彼らは止まらなかった。なぜか。正しく目が使えた瞬間、自分の演技が劇的に変化し、相手との繋がりが深まる感覚を、確かに味わっていたからだ。
「視覚」を極めることが、演技の真実へとつながる
この稽古から見えてくるのは、演劇とは単なる感情表現や台詞の暗記ではないという事実だ。それは、人間の身体機能——特に「視覚」という認知システム——を極限までコントロールする、高度な身体表現だ。
両眼視による立体的な空間把握、サッカードとフィクセーションによる意思の伝達、周辺視野による状況認識。これらが噛み合ったとき、俳優の演技は「嘘」から「真実」へと昇華する。たとえそれが、ヒーローが自分の顔を差し出すという荒唐無稽なシーンであっても、そこに確かなリアリティと質量が生まれる。
「目は口ほどに物を言う」とはよく言ったものだ。しかしこの劇団において、目は口をはるかに超えた「筋肉と脳を駆使する器官」だった。
視覚を鍛えること、それは演技の根幹を変えることだ。舞台の上で本当に「見ている」俳優の目は、観客の心を捉えて離さない。過酷なビジョントレーニングを経た彼らが本番の舞台で見せる「立体的な世界」を、私たちも両の目を見開いて目撃したい。