バルカン動物園 公演情報 青年団「バルカン動物園」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    会話の重なり合いで編み上がる物語
    平田オリザ氏の書いたいつくかの作品が重層的に構成されており、多数の登場人物が同時に舞台にいる設定においての、会話劇のひとつの完成型を観たような気がする。

    ネタバレBOX

    無責任な「カガクするココロ」=「好奇心」の積み重ねで「今」の世界があると感じた『カガクするココロ』、そして、その続編にあたり、ヒトとサルの平行線が研究室の中にどこまでも続く『北限の猿』、さらに王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナルが上演し、人の他の生物(サルを中心に)との関係を描いた『森の奥』など、平田作品に散りばめられていた、いくつかのエッセンスが巧みに構成され、さらに「人間」について、科学が進歩していく中であっても、根本にある「愚かさ」のようなものを浮き彫りにしていた。
    これら(あとは『東京ノート』)の作品を観たことがあれば、より一層楽しめるのではないかと思う。

    「人間の愚かさ」とは何か? それは、自らの好奇心によって、自らを知らず知らずのうちに滅ぼしていくという行為だ。
    ダイナマイトや原子力の発明もそうだが、遺伝子操作や人体への探求は、人類のためという言葉によって正当化され、進められる。
    人類の病気を治すために、モルモットやサルを犠牲にする。それは、劇中の台詞によって明らかになるように、モルモットは犠牲にしてもよいのか、ではサルではどうなのか。今研究材料となっているニホンザルの次は、より人間に近い、チンパンジーに、そしてさらに人間に近くなるボノボに進んでいく。しかし、クローンだからという声に対しては、「じゃクローン人間でやればいいじゃないの」という挑発的で過激な台詞にもあったように、行き着く先は、人間を犠牲にする研究かもしれないのだ。

    サルなどの類人猿は、地球の生命の歴史から見れば、わずかの時間差で分岐した「人類の仲間」である。どこまでが「人間」で。どこまでが「許される範囲」なのかが、語られる。
    つまり、「今、ここにネアンデネタール人がいたらどうするのか」という問いに対しては、誰も答えることはできない。

    人間のために犠牲になることが「許される」存在というのは、もちろん人間のおごりであろう。しかし、その一方で、人間の好奇心(カガクするココロ)は留まるところを知らないし、それによって救われてきた命も多いのだ。

    また、サルとの対比で「人間とは」という命題を掲げるのとは別のアプローチで、どこまでが「人間」なのかが語られる。
    それは、脳だけで「生きている」と言われている、脳科学者の存在だ。
    例えば、人工心臓などの臓器を付けている人は、もちろん「人間」である。しかし、脳以外のすべての臓器を人工物に取り替えてしまった人は「人間」なのか、ということだ。
    さらに言えば、その脳さえも人工物に取り替えてしまったとしたら…。
    また、身体は損傷がないのだが、脳の機能を失ってしまった人に、脳には損傷がないのだが、身体の機能を失ってしまった人の脳を移植したときには、その人は「誰」なのかという議論にも達する(これは、ひょっとこ乱舞『旅がはてしない』で「私」とは、どこからどこまでなのか? 「私という存在」はどこにあるのかということを別の角度からさらに掘り下げていた)。

    つまり、人と他の生物との「関係」(生態系)、人そのものの「存在」という2つのアプローチから、人の「(哀しい)愚かさ」が語られるのがこの作品なのだ。
    その「哀しい愚かさ」の最先端にいるのが、舞台の上にいる研究員たちであり、彼らがそれを体現していると言っていい。

    彼らの置かれている近未来では、ヨーロッパで戦いがあり、今も泥沼のように続いている(『東京ノート』と同じシチュエーション)。
    にもかかわらず、恒常化していることから、戦地から離れている日本では、感覚の麻痺と他人事のように、普通の日々が続いている。
    しかし、彼らの心情には不安感が影を落としていると言っていいだろう(まるで、震災被害のない場所に暮らすわれわれのように)。
    戦争への不安感だけでなく、自分のこと、家族のこと、恋人のことなど、諸々がある。

    こうした休憩室で行われている会話は、「動物園」における、例えば「サル」の檻の中を見ているようだ、という皮肉と、まるで「人種」の違いのような各専門分野の研究員や学生たち、そして、彼らによる答えのない討論、例えば、自分の子どもが自閉症で、それを解明し治療するために、ノックアウト・モンキーを作り命を奪いながら実験を重ねる研究者とサルを研究している研究者とが、根源的にわかり合えない様の行き着く先に何があるのかということがある。それはまさに、戦争というものがそれにあたるのではないだろうか。つまり、ここの場所は、しばしば「人種のるつぼ」「火薬庫」の冠を付けられる「バルカン(半島)」であり「動物園」なのである。
    『カガクするココロ』や『北限の猿』のように、とてもシニカルなタイトルが付けられているのだ。

    普通の会話が止めどなく交わされているのだが、その会話は一見、単につながりのない会話なのだが、会話と会話の芯の部分での共鳴があり、きちんと観客に響いてくるのだ。
    例えば、舞台の上手が話されていることと、下手で行われている教育実習の演習の様子が、微妙なラインでリンクして、まるでひとつの会話のように、メッセージを伝えてくる。
    それが、各会話や言葉が直接重なるという安易な方法ではなく、時間差や場所の違いによって、あらゆるところに出現してくる巧みさがある。

    観客は聞こえてくる会話をそのまま聞き、それらがいくつかのキーワードや内容によって、関連性を見出し、さらに物語として編み上がるのを脳の中で感じていく。

    このときの状態は、この舞台にしかできないテクニックであり、1つひとつの会話を完全に聞き取ることができなくとも、大切な台詞はきちんと届くようになっているところが、素晴らしい。
    つまり、一見、まとまりのない会話が同時多発的に起こっているように見え、その実、それらは1本の会話劇としての体を成していくことに気がつき、驚くのである。

    これは登場人物の多さが邪魔にならず、そして、台詞で直接的なメッセージを伝えるのではない、アプローチとして有効であろうと思う。
    そして、このアプローチは、誰もができることではないだろう。

    したがって、改めて、平田オリザ氏の凄さを感じざるを得ないのだ。

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    2011/03/28 07:12

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