京都学生演劇祭2026 公演情報 京都学生演劇祭「京都学生演劇祭2026」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    Aブロック観てきた。

    以下、ネタバレへ。

    ネタバレBOX

    京都学生演劇祭のAブロック、三本見終わってみると、かなりとんでもないプログラムだった。

    最初の作品は、神様として祀られている存在が実は怪物で、村人たちは生贄を捧げながらそれを鎮めている、という伝奇的な世界から始まる。そこに、子どものようにも見える、どこかいたずらっぽい存在が現れて、物語の構造をひっくり返していく。

    妖怪や神話を題材にした作品として受け取ることもできるけれど、単純な怪異譚ではなく、「人間が神や怪物をどう名付け、どう扱うのか」というところまで遡っていく感じがあった。

    こういう伝奇ものは、やはり京都で見ると少し凄みが増す気がする。
    神社や祭祀、妖怪や怨霊といったものが、単なる物語上の設定ではなく、街のあちこちに古い記憶として残っているからだ。
    舞台の外側にまで、こういう物語を受け止める背景がある。

    二本目になると、さらに不思議になる。

    夕日を追うように歩き続ける人々、眠れない少女、孤独な神、怪物のような存在、母と息子、月の欠片、そして「21グラム」。

    神話なのか、夢なのか、創作なのか、それとも誰かの記憶なのか、最後まで輪郭が完全には固定されない。

    「21グラム」が魂の重さをめぐる有名な逸話を連想させることもあって、息子が太陽や星空のような存在でありながら、どこか大事なものを失って抜け殻になっているようにも見える。母親が何かを「創った」存在だと考えると、創造した側と創造された側の関係にも見えてくる。

    個人的には、このあたりの少女幻想的な感触がかなり好きだった。
    ユリイカ百貨店のような、現実と幻想の境目が少しずつ溶けていく感じがある。
    長野まゆみや鳩山郁子の作品を読んでいるときのように、物語の意味そのものより、言葉や物や人物が持っているイメージの連鎖に引っ張られていく。
    ただ、こういう作品だからこそ、もう一つくらい具体的な神話の足場があっても面白かったのではないかと思う。

    たとえば「神様」という言葉は、とても広い。

    ギリシャ神話のプロメテウスのように、固有名が一つ置かれるだけでも、創造、神と人間、与えられたもの、そしてその代償といった具体的な物語が一気に立ち上がる。
    もちろん、この作品が実際にプロメテウスを意識しているという意味ではない。
    ただ、「神様」や「月の欠片」や「21グラム」といった言葉を、もう一つ具体的な神話的構造につなぐものがあれば、観客が作品の中へ入っていくための足場になったかもしれない。
    そうしないと、言葉を拾っていくほど、
    「神」
    「母」
    「息子」
    「月」
    「21グラム」
    といった巨大で美しい記号だけが残っていく。

    それは長野まゆみや鳩山郁子のような少女幻想の方向にも見えるし、逆にそこから、さらに匿名的なゴドーが口を開けているようにも見える。

    こういう作品は、筋を説明してしまうとむしろ面白さが抜けてしまう。観客が「これは何なのか」と考えながら、自分の中で神話やイメージをつなぎ合わせていくことそのものが作品になっているように感じた。

    だからこそ、これは作品が薄いという話ではなく、むしろ好きだったからこそ、もう一つだけ具体的な神話的固有名があったら、かなり強いところまで行けたのではないかと思った。


    ここまでなら、かなり実験的ではあるものの、まだ「学生演劇祭らしい、神話的で少し難解な作品」として受け止められる。

    そして三本目になると、神話的世界が突然、地獄第三セクター三途の川ラインの職場になる。

    三途の川を渡る亡者を運ぶ、いわば「三途の川線」。

    そこには現世で犯罪を犯して服役し、地獄でも刑期を終えた人たちが働いている。つまり、かなり真面目に更生している……らしい。

    その中心にいるのが三十又機関士である。

    特に「僕、現世で三十又してたクズ男です!」などとは言わない。普通に有能そうな機関士として仕事をしている。
    よくわからないのだが、もうすぐハロウィンになると新幹線みたいに三途の川ラインも舎人ライナーみたいに激混みになるらしい。そのうえ停電まで続いていて、現場はピリピリしている。

    この人、現世では三十又。

    数々の女性と関係を持った末、そのうちの一人に背後から刺され、昭和の色男として堂々たる最期を遂げ、死☠。
    そして地獄で服役した後、三途の川線で機関士として働いている。 

    なんでやねん。

    ここまでなら、かなり「罪と罰」である。
    ドストエフスキーである。
    ところが、その女性も現世で殺人の罪に問われ、服役し、死後は地獄で服役している。そして三途の川線で、何食わぬ顔をして彼と同じ職場にいる。

    しかも彼女は、可愛い顔をしてニコニコしながら、心の奥底では彼を全く許していない。

    密かに呪いを仕掛けようとする。

    その呪いは「誰かに背を向けること」に関係する。自分が後ろから三十又機関士の腹を抉った、そのトラウマを死後も彼に味わわせようとする。

    ……それ、重すぎるよ展。30%…

    ただ幸いなことに、三十又機関士はすでに別の呪いを受けているため、新しい呪いは掛けた方に跳ね返るという、妙にジョジョ的で精密なルールまである。

    なんでやねん。

    最初の三十又機関士の、「頭に浮かんだことに合わせて電球がぶら下がって光る」という呪いまで、後から考えると単なるギャグではなく、作品全体の呪いのルールに組み込まれている。
    ここまで来ると、これは「宴会芸のような作品」に見えて、実はかなり細かくルールを設計した呪いのシステム演劇でもある。
    しかも三十又機関士の周囲にいる同僚たちも、現世で詐欺をして服役し、地獄でも服役し、ようやく罪を償って三途の川線で粛々と真面目に働いているだけなのに、彼女の復讐によって、

    「……こいつらまとめて呪う!(キャー)」

    となる。

    それ、重すぎるよ…展50%…(シャンシャン)!

    罪を犯した人間が罰を受け、その後に働いている。
    そこへ一人の人間の情念が侵入してきて、また全員を地獄へ引き戻そうとする。
    こう考えると、たしかにドストエフスキー的な入口がある。
    罪とは何か。罰とは何か。復讐とは何か。罪を犯した人間は、その後どう生きるのか。他人の罪によって自分まで巻き込まれることは、果たしてどこまで許されるのか。
    ……と、こちらはだんだんドストエフスキーの顔になってくる。
    しかも太宰的な日本文学の女性像を思い浮かべても、今回の彼女はかなり異質に見える。
    太宰的な人物なら、自分自身の弱さや破滅を言葉にしてしまいそうなところを、この女性は、
    「憎い」
     ↓
    「殺す」
     ↓
    「服役する」
     ↓
    「死後も地獄で服役する」
     ↓
    「同じ職場に行く」
     …え?
     ↓
    「呪う」
    ????

    と、情念が内面描写を通過せず、そのまま行動になる。
    いわば、文学の中で悩み続ける女性ではなく、
    ハカイダーみたいな実行力を持った情念の女性である。
    ……と、ここまで考えると、いよいよドストエフスキーっぽい。
    ところが、舞台はそれを許してくれない。
    三十又機関士の絆創膏を、その女性が剥がす。
    「痛っ!」
    機関士、50センチくらい飛び上がる。
    ここで全部が崩れる。
    「……重い。人間とは……」
    と考え始めたところに、

    鈴木雅之『違う、そうじゃない!』

    が脳内から乱入してくる。
    しかも困ったことに、見ている側、特に中年のおっさんの中には、見かけ上ラブコメに見えるせいで、

    「……いいなぁ……」

    と思う人間まで出てきそうである。

    ちょうど津波警報のようにメンヘラ警報が場内に鳴り響きまくっているのに、
    ビッグ・ウェンズデーを見に海岸へ行きたがるようなキラキラ✨️した目をした飴ちゃん舐めた中年たちがそこにいた…かもしれない。

    断言はできないが♨️

    いや、待ってくれ。
    冷静に考えれば、この男は三十又をやっていたのである。
    自分を刺した女性だけでなく、同僚まで自分と同じ泥舟に乗せている。決して無害な主人公ではない。

    ……おっさんたちの良心の声。あれば。

    それなのに、
    「死んでも自分を追いかけてくる女性がいる」
    「しかも美人である」
    「絆創膏を剥がしてくれる」
    「痛がる」
    という場面だけ切り取ると、突然、死後の世界が地球のGを遥かに越える超重量級ラブコメになる。
    まさに、

    『それ、重すぎるよ展』✨️
    完全体である(シャキーン)…

    イオンモールの片隅に、そこだけ重力が地球を越えている一角がある(イメージ)。
    不倫カップル、曽根崎心中型のカップル、復讐型の元恋人、死後まで追いかけてくる女、三十又機関士。

    土日なのに、ちびっ子はいない。
    せいぜい水子の霊どまり。

    みんな情念が重すぎる。
    その一角だけ、物が床に落ちる速度まで違う。
    そして三十又機関士は、その中心で巨大な「恋愛の重力場」を作っている。本人は死後もラブコメの主人公であり続け、その周囲にいる同僚たちは、ただただ巻き込まれていく。

    人権もなく。

    だから、この作品を太宰からドストエフスキーへと進んできた日本文学のように考えてみると面白い。
    太宰的な人物なら、もっと自分自身の弱さや破滅を言葉にしてしまうかもしれない。
    ドストエフスキーなら、罪と罰、救済、復讐、愛、自由意志といった巨大な問題にまで掘り下げていく。
    ところが、この作品の女は、そんなところで立ち止まらない。
    「憎い」
     ↓
    「殺す」
     ↓
    「服役する」
     ↓
    「死後も地獄で服役する」
     ↓
    「同じ職場に行く」
     ↓
    「呪う」
    そして三十又機関士は、
    「痛っ!」
    と50センチ飛ぶ♨️

    さらに船医がラブなコメな雰囲気に今さら無駄に気づいて「気まぐれロマンティック」と呟きなぜか全部ぶち壊しなエンドになる(byいきものがかり♫)

    …これは文学が邦楽に侵食される、という、意味?というかいきものがかりに…?

    なんでやねん。

    だから結局、
    太宰からドストエフスキーへ向かおうとしたところに、鈴木雅之が現れて「違う、そうじゃない」と言う。
    そこからの、いきものがかり…。

    強引?

    でも、もしかすると「違う」のではなく、それこそがこの作品の面白さなのだと思う。
    神話、妖怪、地獄、罪、罰、復讐という大きな物語を作りながら、最後まで人間の身体と恋愛と職場のくだらなさから逃げない。
    高尚なテーマを掲げているのに、絆創膏を剥がされた男が飛び上がる。
    その瞬間、ドストエフスキーの重力を、鈴木雅之の一撃が吹き飛ばす。

    Aブロック全体も、そんなふうに「神話」から「夢」へ、そして「死後の職場」へと降りてきて、最後には神秘的な世界そのものを、人間関係と身体のドタバタにまで引きずり下ろしてしまったように見えた。
    最初の二本で「これは何か」と考えさせておいて、最後の一本で「いや、なんでやねん」とこちらを現世に引き戻す。

    かなりとんでもない三本だった。いや、こういうの好きです、わりと(ボソッと呟く)♨️

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    2026/09/26 22:59

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