盗まれた幸せ 公演情報 Theatre in Opposition (TiO)「盗まれた幸せ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    面白かった。以下ネタバレへ。

    ネタバレBOX

    『盗まれた幸せ』、観終わってからミハイロのことを考えていたら、だんだん『オネアミスの翼』と『カウボーイビバップ』の間に19世紀ガリツィアの農村を挟んだような気分になってきた。

    ジャズドラム、ドコドコ。

    ミハイロはもう完全にシロツグ。
    村を出る。
    (王立宇宙)軍へ行く。
    都会を知る。
    やがてなんかジャンダルムになって帰ってくる。

    「俺はもう昔の俺じゃない」
    ……たぶん本人はそう思っている。

    でも村からすると、
    「東京行ってちょっとおしゃれになっただけっしょ……」
    なのかもしれない。

    そこでなぜか阿倍野橋と富田林が浮かぶ。

    阿倍野橋と富田林、近鉄一本。
    なのに東京にいる人間の頭の中では、
    阿倍野橋=都会
    富田林=遠い故郷
    みたいな壮大な文明論ができている。

    ウィーンと東ガリツィアも、ちょっと似ている。

    もちろん歴史的には全然違うけど、
    ウィーン=洗練された帝都
    東ガリツィア=失われたヨーロッパ
    みたいに、後世の我々が勝手に霧をかけている。
    住んでいる人からすれば、
    「いや、阿倍野橋も富田林も普通に村やで〜!」
    酒場もある。
    地主もいる。
    噂も回る。
    そして都会帰りのシロツグ、じゃなかったミハイロが、昔の女に会いに来る。

    村内5G、通信制限なし。

    ここでアンナをリイクニだと思ってみる。
    宗教っぽい。
    自分の世界がある。
    別に男を集めようとしているわけでもない。
    本人は本人で、自分のことを考えている。
    なのに、なぜか男のほうが勝手に意味を見出して寄ってくる。
    しかも本人の思い通りには、あんまりならない。

    この感じで考えると、ミハイロも急にわかりやすくなる。

    そして、もしリイクニの旦那を『スーパーの裏でヤニ吸うふたり』のおっさんみたいな空気で置いてみると、
    「なんでこの女の周り、こんな男ばっかり寄ってくるんだ」
    という妙な現実感まで出てくる。

    本人たちはそれぞれ勝手に人生を背負っている。
    でも女のほうは、たぶんそこまで壮大なことを考えていない。
    そしてミハイロだけが、ものすごい過去を背負って帰ってきたつもりなのに、
    村からすると、
    「で、アンナ、つかリイクニどうすんの?
    さんざん昔から夢語ってたやん。ワイら見てたで……」
    「トボけとるんか、あんちゃん。結婚とかマジ関係ないで」
    である。

    昔の駄菓子屋に戻ってきて、
    「まだこの味あったのか!懐かし…」
    くらいのつもりだったのかもしれない。

    ところが一口いったら、昔の味どころか人生全部、噛んだお菓子から染み出してくる。
    最後には、
    「俺はいい。リイクニとウィーンに駆け落ちすれば……。あれ、じゃあ、かーちゃんはどうする?」
    となる。

    ここでミハイロが急に可哀想になる。

    外の世界を知った。
    権力も手に入れた。
    昔の女も取り戻したかった。
    でも母親だけは置いていけない。いや、兵役に言ってる間に死んでるのかも知らんけど。

    宇宙へ行ったシロツグが地球へ帰ってきたみたいに、故郷へ帰ってきた。
    ただ、
    帰ってきた場所は、もう自分が覚えている故郷ではない。

    夢の中の阿倍野橋。
    夢の中の富田林。
    夢の中の東ガリツィア。

    本人だけが壮大な物語を背負って帰ってきて、
    地元からは、
    「お前、なんか勘違いしとるんかも知らんけど、ここそんな夢みたいなところちゃうで??」
    「ワイら普通にちゃんと生きとるし。モブキャラにせんと」
    と言われる。

    でも、たぶん本人も薄々わかっている。
    だから帰ってきた。
    そして最後の「ありがとう」。
    これ、恋愛だけで考えるとちょっと不思議なんだけど、
    母ひとり子ひとりだったとしたら、ものすごく腑に落ちる。

    ミハイロは自分のためなら、アンナを連れてウィーンへ行くことはできる。
    でも、それをやったら母親から美しい故郷、ガリツィアまで奪ってしまう。
    連れていけば、母親は故郷を失う。
    置いていけば、一人になる。
    だから自分だけ幸せになることを、最後のところで選べない。

    その意味では、母親にとってミハイロは唯一の家族であり、そして最後には「殉国したジャンダルムの息子」として、村で生きていける。

    ミハイロに残された最後の親孝行は、
    「かーちゃんからガリツィアという美しい故郷まで奪わない」
    ことだったのかもしれない。

    そう考えると「ありがとう」が急に山本直樹っぽい湿度になってくる。

    さんざん勘違いして、昔の女を追いかけて、国家権力まで持って帰ってきた男が、最後の最後だけ、
    「俺はいい。かーちゃんはここにいればいい」
    になる。

    かーちゃん死んでたとしても、いや、なんかこの男、なんだかんだ言って、実は母親の死んだ土地に一緒に埋められたいと思ってないか?
    みたいな。

    欲深♫

    考えてみると、なんだこの、詩的でビバップ的なスノッブな感じ。
    ジャズドラムが鳴って、近鉄が走って、東ガリツィアが消えていく。

    『オネアミス』のシロツグと『カウボーイビバップ』の連中が、なぜか富田林で合流してしまったような、そんな妙な映画を一本観た気がする。

    構造はギリシャ神話みたいでも、なんか最初に思い浮かぶのはいつもアニメのタイトルだったから、気づいたらアテナイとかより富田林とか言ってる自分。

    すんません(笑)


    【補足】
    自分もポーランド語を勉強したり原語でポーランド文学を読んだり昔の人の手紙をみたりしたことがあるので少し。

    ・東ガリツィアの農村では、ルテニア人(現在のウクライナ人)が多数派だった。

    ・ルテニア語/ウクライナ語はキリル文字、ポーランド語はラテン文字。文字そのものが違う。

    ・宗教も、ルテニア人の多くはギリシャ・カトリック、ポーランド人社会ではローマ・カトリックが中心だった。

    ・行政・教育・政治ではポーランド語、ハプスブルクの中央・軍事組織ではドイツ語が強く、村の日常語との距離が大きかった。

    ・しかも当時の「多少ポーランド語ができる」は、現代の「ちょっとスペイン語わかります」とはかなり違う。読み書きまでできること自体が、その人の教育・職業・都市との接点を示す場合があった。

    ・そして手紙を書く。現代のメールのような事務連絡ではなく、当時の書簡にはかなり修辞的・文学的な文章も多い。一枚の手紙から、その人がどんな世界を通ってきたのかまで透けて見える。当時の手紙を見ると、文学者でもないのに恐ろしく美しく尖った文章が多いのもそのため。

    ・だから村人にとっては、「紙は届いた。でも文字が違う。何が書いてあるのか分からない。でも、この紙で自分たちの人生が決まる」という恐怖があり得る。

    ・村内の噂は「村内5G、通信制限なし」。ところが国家との通信だけは文字コードが違って圏外。

    ・その「圏外側」へ出て、ドイツ語・ポーランド語を使う行政や軍事の世界に接続して帰ってきたのがミハイロ(や村長?)、と見ると、彼の存在が急に怖くなる。

    ・同じ村の人間なのに、国家の文字を読める側に行ってしまった。これがミハイロの「都会帰り」の正体の一つなのかもしれない。

    ・イメージ的には当時のガリツィアはヨーロッパでもかなり文化的に尖ったウイーンとポーランド(ほぼ農村なのにやけに文学的)の文化・言語圏が上にのしかかり、さらにそのすぐ向こうにはイタリアフランスドイツなどがあるというかなり文化言語的な多重構造にあり、日常的にさらされていた、けど大多数の農民はなにも読めないし、何喋ってるのかもよくわかんない、しかも立場は相手が上という状況におかれていた…。


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    2026/09/20 00:34

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