公演情報
能法劇団 Noho Theatre Group「能法劇団45周年公演— Still Here」の観たい!クチコミとコメント
期待度♪♪♪♪♪
京都の夏の旅もそろそろ終盤だけれど、月末にギリギリ滑り込ませて、ついでに能と狂言まで観てしまおうと思っている。
演劇を観るとき、自分はけっこう勝手に
「ここを始点にしてみよう」
と、考える癖があって、幾何学でいう始点みたいなものをひとつ置いて、そこから別の作品に線を引いていく。
自分の場合、その始点になることが多いのが
『リチャード三世』
リチャードは観客にだけ本心を明かしながら、舞台上では他者を欺き、役割を自在に演じ分ける。物語の人物であると同時に、観客を巻き込んで舞台を動かすプレイヤーでもある。
かなりludicな演劇だと思う。
そこから考えると、ベケットはその演劇のゲーム性を『ゴドーを待ちながら』で極端に削ぎ落としたようにも見える。
「待つ」「話す」「帰ろうとする」「帰らない」
といった反復そのものが、舞台のルールになっていく。
ゴドーとは自分かもしれない…いやゴドーだったと言って良いだろう。そのような人はたまにいる。
病気の女の子が自分を待つ。でも自分はそれを知らず。知っていれば行った。けれど誰もささやく者もなく自分は知らないまま。
自分には罪がなくても、あとからそのことだけを感じれば、気づけば墓の前で僕が背負うのは十字架。
この運命の巨大な重さを感じつつ、気づけばまた同じことが巡ってくる(D.C.)
そんなわけで、自分がゴドーに共感するのは、ゴドー本人も自分のロール(役割)について知らなかったのかも知れないというところだと思う。
ゴドー『ハァハァ…あの子が死んだって聞いてマッハで来ました…』
『ふざけるな!お前あの子が死にそうだから一目みたいって言ってたと伝えたのに狂人のフリをして悪意を持って逃げたんだってな!!』
『ちょっと待ってください、初耳です、誰がそんなことを…』みたいな。
これは待つ側ではなく、『きっと待たれていた』側の心の中に去来する繰り返し囁く悪魔、そして葛藤。それがゴドー。
今回は、そこに能・狂言の
「型」「反復」「間」「身体」
という別のルールが重なる。
単にベケットを能狂言風にするというより、リチャード三世からベケットへと抽象化され、近代史のなかで削ぎ落とされてきた演劇のゲーム性を、今度は能・狂言によって別の形で舞台上に露出させる、と考えるとかなり興味深い。
もちろん、これは観る前の勝手な仮説♪
こういうふうに軽く仮説を立ててから観に行くと、当たっても外れても面白い。外れたら外れたで、「あれ、じゃあ何だったんだ?」とそこから考えればいい。
クラシックのコンサートでも、曲目を見ただけで「この演奏者、こう料理してきそうだな」とか、「このホールだと、ここで演奏者の意図と響きがせめぎ合いそうだな」と思うことがある。実際に聴いてみると、その予想が当たったり、きれいに裏切られたりする。その感じがけっこう好きなのだと思う。
なので、この夏はもう少し雑に遊んでみる。東京を出発点に『リチャード三世』を置いて、京都まで来たら『ゴドー』、そこから瀬戸内海のほうまで心の中で遠征しよう、能法劇団、くらいの感じで。
実際に観てみたら、「これは瀬戸内海だと思ったら豊岡だったな」とか、「いや、これは高知かもしれない」とか、全然違うところに線が伸びていくかもしれない。
そうなったらそうなったで、帰ってから地図帳を広げるように、あれこれ考えて楽しんでみるのも悪くない。
こういう知的な旅は、別に何も考えずに観ても楽しめるし、考え始めればいくらでも遊べる。そのくらいの余白があるほうが、夏の旅としてはちょうどいい気がする。
京都まで来たなら、最後の最後に能と狂言までねじ込んでしまおう、という意気込みである。♫(笑