公演情報
パルコ・プロデュース「カッコーの巣の上で」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
満足度★★★★
早々に予約した公演。で、予定の日に行ったら、初日だった。そうだっけ?
雨っぽい空の下渋谷から歩いて会場へ着くと、8階だ、そうだった。若干余裕を持って来て良かった、と安堵しつつも雨の湿気にやられて腹が痛い。持つかな..。
PARCO劇場でやる芝居は高いので滅多に来られないが、今日は上流階級の御仁達の間に入ってあちきもいっぱしの「一級品」を味わうこともあるんだわさ、と靴音のならない上流階級が通うサロンのフカフカの床を歩く。劇場としては観客とステージの距離感が収容人数にしては良い。なぜ見やすいと感じるのかは不明だが。
この作品と松尾スズキ演出というので馳せ参じたが、初日ハプニングが。動いちゃいかん物が動いてしまい、先々の展開の一つが知れてしまい・・結構痛かった。が、「知らず」に見たとしてどうだったかな?というのも一抹過ったが。休憩時に自分の前の席の女性のところへ、見た感じ演出と思しい帽子の人がやってきて一言二言。ざわめきで声は聞こえんが女性は相手の背中をポンポンと叩く。「まあ初日だし仕方ないよ元気出しな」的な光景。このハプニングによって、終盤一つ盛り上がりを作る場面が「予想された瞬間がやってきた」という心の声に迎えられ、展開するのだが、ギミック的になかなかの仕掛けであるものの、その瞬間を「盛り上げる所」としなくて良い気はした。怪力が、よくぞやった!と胸がすく出来事でなくてはならんが、本当なら蹴ったり左右に揺らしたり「おりゃ、おりゃ、どりゃ~~~!!」と目いっぱいの力で「それ」を果たすのに、借り物の装置を使ってでは、らしい演技にも限界がある、という所は別の何かでクリアしたかった(といっても方法は今思い浮かばないが)。
しかし観客の想像力というものがある。自分もそのように「あるべき筋書き」をなぞり、芝居に付いて行く。
時代的な制約、という事をやはり考えた。
自分は映画版しか見ておらず、舞台版で恐らくはフィーチャーされたインディアン出身の男の存在感が舞台を神秘的な哲学的な空間にした、という事だろうと推察。だが強調点やテイストの違いはあるにせよ、自由を求める源である「管理・抑圧」の存在が意識された時代と、管理をむしろ望んでるとしか思えない風土の現代日本では、主人公のハチャメチャ振りの根っこに横たわる抵抗精神や、自由をどこまでも希求してやまない精神を理解する人は実はえらく少ないのではないか・・と想像する。
コールガールを呼び込んでの深夜のパーティだのに、天晴れ!と溜飲を下げる空気が流れない。かと言って、観客の許容力以上に人物らが走ってしまうと観客を置いてってしまう。
主人公の造形は「できる男」としては見事であったが、ある部分で不器用さ、あるいは脇の甘さ(正直な分)が良きところで見えるといった事があると、感情移入の度合いも違ったかも知れない。(これは脚本の問題になるだろうか。)
主人公の魂に呼応するのが先のインディアン出身の大男であり、彼を悼む収容者たちが部族の踊りを踊る展開に、伝えたい趣旨を汲み取り、終幕手を握りしめた。残酷な現実が社会にはある・・映画を観たとき突き付けられた事実は、そこから持つべき希望を、彼が我々に託したと思えたことで胸の内で消化されたのであった。ただ芝居では彼を現実世界が許容できなかった犠牲者として、明瞭に位置づけるまでには至らなかった、かも知れない。それをかの「ミス」のせいと私は思っていたが、そうではない側面もあったかも知れない。
役者の弾け振りが、あるいは松尾演出の真骨頂であろうか。切れ味鋭い演技を繰り出す役者たち。江口のりこ演じる看護婦長が管理主義の権化であり、憎まれ役であったが、彼女の背後に彼女をそうさせている大きな影を想像せねばならない。
ロボトミー手術とは実際のところ個人の趣味志向によるおぞましい支配の具現形で、趣味志向を普遍的正義と言い換える吐き気のする欺瞞、虚偽。
代用監獄、人質司法も、メンツのための拘留を正義と抗弁する「欺瞞」かも知れぬ。