第三の証言 公演情報 劇団青年座「第三の証言」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    青年座自体久し振りで「同盟通信」初演以来だろうか。今回は椎名麟三の名前を目にして観劇を決めた。本作は青年座旗揚げ公演(1954)に書下ろされた創作劇で、改訂しながら再演されて来た作品との事。今回の台本は演出の磯村純が過去上演台本を基に準備したもののよう。
    東京五輪(1964)でようやく戦後20年。本作の舞台は戦後10年経たない頃。朝鮮戦争特需で経済成長の土台を敷いたとは言え成長期に入るまでの庶民の生活は中々に大変、所謂戦後文学は「戦争/戦前」からの総括的意味合いをもって暗く、流動的な世界情勢の中で日本の政治案件を巡る運動に人々が注ぐ熱度は「物がない」状況に反比例して高く、娯楽は映画や歌謡、相撲といった案配。つげ義春の漫画も時代を想像する材料になってるが、そんな「暗さ」を当時の人的には抱えていても、それを客観的に眺めればもっと明るさがあった、という印象がある(自分の思春期が全面的に暗かったと記憶する割にはふとあっけらかんと明るかった場面を思い出したりもする)。
    時代のモードというか生活感覚を想像するのは面白い。それは物語が時代背景、根底に抱えたテーマとの関係において成立するという事があるからで、既存作品を今やる、という場合にその命題は不可避に立ちはだかる。
    だが椎名麟三の名はとりわけ、読む時代を限定する印象があり(小説は読んでおらず一編だけ読んだ戯曲の印象)、それだけに「楽しみ」だった。
    作品はリアルな社会的現実を俎上に乗せた暴露話のようでありながら、形而上的な問いが根底にある、という前提で眺めれば、本作の戯画的というか象徴的・詩的側面が見えて来る。この要素を介在させる事で本作は理解できるのかも・・と思う所である。(その部分を書いたら長くなったのでネタバレ欄に移した。)

    時代は書かれた1954年当時に設定されており、時代性が見える面があって自分としてはそこが面白さである。
    労働者たちの振る舞いに、戦争を引きずった殺伐感もあるが同時に、不可避に滲み出る楽観性(現代の管理社会に比して)、結婚する同僚に対する女性の同僚の他愛ない要求(新婚旅行はどこそこに行ってほしい、挙式に帰省する前夜に自腹で料理を発注して壮行会をやったり)などに、小津映画の一場面を彷彿したり・・。
    その断片に、時代が保っていたもの(現代失われたもの)を嗅ぎ取るのも面白い。
    男はどうも歳を取ると歴史により関心が行くらしく、その口かも知れん。

    ネタバレBOX

    本作のタイトルの「第三」とは何か。パンフに掲載された論考にそのヒントが書かれてはいたが、どうもキリスト者である椎名氏の生涯の創作テーマへの遡及を要するようで・・「どう生きるべきか」「正しく生きるとは」というテーマは戦後派共通の命題で、私の知る「軍国少年」世代の先人が敗戦で寄る辺を失い精神的放浪の結果辿り着いたのがキリスト教、でなければ共産主義、でなければ・・そんな状況があった。物質的豊かさで生活を彩る(ごまかす?)事が不可能な時代、生命を賭けた「尊い目的」(戦争)が瓦解した後にその代わりを求めるのは自然な成り行き・・(想像力逞しく思い描かねば当時の実相には近づけない)。で、椎名氏は生きる意味の答えを求める途上で、二者択一の態度を迫られる状況に人間を立たせたこの戯曲を通して、「正しい生き方」への問いを探った。だが正解を知るのは自分でもなく他者でもなく、神である、神の証言によって「正しさ」は措定される・・「第三の」とは「神の」との意味と読める、そうである(その人一流の抽象表現なのかも知れぬが)。
    作品との関連はともかく、第三の目、という視点は「日本人にはそれが欠けている」という文脈で言われる事があるが、巷間流れる言説への疑問や、なぜ政治家は平気で漸減を覆したり矛盾した言葉を吐けたりするのだろう(まあ高市首相の事だが)、という疑問への端的な答えがそこにある。愚かで忘れやすい「人間」だけを相手にしていれば良いから・・である。真実を見抜く「第三者」の目を気にする事がなく、バレないと思っていれば、「その内忘れちゃう」日本人が相手である限り、嘘もつけるしその場しのぎの弁明の言葉も吐ける。そういう態度は幼稚である、という自覚にも到達できない・・とすれば、どうだろうか。

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    2026/05/31 01:47

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