わたしは、タイタス・アンドロニカス 公演情報 演劇ユニットキングスメン「わたしは、タイタス・アンドロニカス」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     本日6日は17時開演、曼荼羅は手洗いが1か所しかないし、尺が長く途中休憩が無いから小屋に入る前に用はたしておく方が良い。サックスの生演奏が入り、役者陣の熱量も高い。

    ネタバレBOX

     余り上演されることの多い作品ではないが、その理由の一端はその内容が余りにも凄惨なことが上げられよう。而も今作、その台詞内容も未だシェイクスピアとしては未熟な時期に書かれたと解釈する向きもあるように所謂シェイクスピア四大悲劇同様台詞で展開される論理の整合性が熟年期の作品に比べて粗いと感じる者も多かろう。だがこの理由として今作は他の観方もできる作品であると考えることも可能ではある。例えばアーロン、ゴート族の女王であったタモーラの愛人であり、今作で “悪”の要を自認する彼の画策をとうとうと自白するシーンが終盤にあるが、何故彼がそのような人物に成長してしまったのかについては一切語られていない。これは、ムーア人のアーロンこそ、今作の真の主人公だからだと考えてみたらどうだろう。実際シェイクスピアの書いた作品の中の四大悲劇の主人公となっていくオセローの前駆的存在こそ、アーロンではなかったか? と考えてみたとすれば。最終盤でアーロンが捉えられ我が子をも捕縛された挙句、己の犯した犯罪を只息子を助ける為だけに縷々述べるに及んで自らの悪に染まった真の原因については何一つ語らなかったことの意味するもの・ことこそ唯肌の色が黒いというだけで加えられた差別だったのではないか? この不条理は本人の責任では在り得ない。而も恰も本人の責任が当然だと己の属する社会から扱われる。こんな経験が朝から晩まで毎日当たり前のこととして繰り返されるのだとしたら・・・。拗ねないことの方がよほど不自然ではあるまいか? 今作に登場する人物たちはこんな視点から眺めてみると皆、このように己の置かれた社会的位置から自由ではない。主人公であるタイタス・アンドロニカスも名将軍という社会的地位の奴隷であり、サターナイナスとて先帝の第一皇子という位置の僕に過ぎまい。知恵に長け狡猾なゴート族の女王とされるタモーラとて捕虜としてゴート族の支配地からローマへ連れて来られた際、戦闘で亡くなったタイタスの息子たちの霊を弔う為生贄として選ばれたタモーラの長男、アラーバスは、母タモーラの切実極まる助命歎願にも関わらずタイタスの命令で惨殺された。タモーラがその後、アーロンと組んでタイタス一族に祟ったのは我が子惨殺に対する母として当然の復讐からだった。要は、何れの登場人物も皆例外なく己の抑え切れない欲動によってその人生の最も肝要な選択の動機づけが為されており、少し俯瞰して己自身を眺めることができたならば滑稽とすら自分自身で気付くことができる程に今作で描かれている総ての事態を回避できたであろうに。シェイクスピアが実際に書いたのはそれができなかった人間というものの愚かさであった。この点に深い意味があることをキチンと捉え、可成り錯綜している今作原書からの小田島雄志氏の訳をその本質を捉えた上で分かり易く上演台本化した篁さんの力に拠るところが大きい。また、殆どの人間が、自らの行動を真に決定しているものが、自らの存在の原点と信じ込んでいる情動によって動かされているに過ぎないことの愚かしさをも照らし出している。
     無論、上演される演劇は他者の書いたものを役者が演じ、観客はそれを観て他人事とするのが常である。然し、もう一歩踏み込んで想像力を働かせ自分事として体験し直してみるという観方は更に深く作品を味わう為の良い方法の一つであろう。今作のタイトルに原作には無い“わたしは”が付いているのは、この意味で、日々我々が見聞きしている世知辛い世の中の報道なども、発信する者各々の社会的位置や利害迄正確に見極めなければ見誤るというメッセージとして受け取っても良かろう。今作上演にはそれだけの深さがある。

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    2026/05/06 11:30

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