浮標(ブイ) 公演情報 葛河思潮社「浮標(ブイ)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    強い!! 素晴らしく力強い舞台!! 演出家と役者が強い戯曲と格闘した姿がそこにある
    約4時間(休憩2回)のアナウンスに身構えたが、決して長くはなかった。それだけ素晴らしい舞台だった。


    戦中が舞台だが、その古さはまったく感じず、現代に力強く存在していた。
    それは、戯曲の素晴らしさももちろんあるのだが、演出と役者の肉体が真正面から立ち向かった姿でもあった。

    ネタバレBOX

    千葉郊外の海岸にほど近い場所で、肺病の妻を看護しながら暮らす画家五郎。彼と妻を取り巻く人々の物語。時は戦争の足音が聞こえてくる頃。

    作者、三好十郎氏夫婦のドキュメント的要素もある物語でもあるそうだ。

    まず全員が舞台に立ち、長塚さんから簡単な挨拶があり、舞台の幕が開く。
    全員が上下黒い衣装に身を包み、舞台の左右に着席する。
    舞台の中央には砂場のような装置があり、砂が入っている。とてもシンプル。

    役者は観客と同じに舞台中央で行われている芝居を凝視する。そして、自分の出番前には左右に去り、衣装を身にまとって現れる。

    しかし、着席して観ているのは、単に出番を待っているのではなく、そのシーンごとにその人(つまり出番ではなく待機している人)の気配を残す効果がある。つまり、舞台の中央にいる人々にとって、去って行った人、あるいはその場にいない人の気配がどこか頭の片隅にでも残っている様子なのだ。

    満州事変が起こり、戦争がこれから日常化しつつある時代が舞台である。商品も統制が始まり、画壇も各団体が1つにまとめられ、統制の対象となろうとしている。
    「死」が近い時代だったと言っていいだろう。

    その中で、死の病とも言える結核に冒されてしまった妻を看病する五郎にとっては、さらに死が身近なものになっている。
    どうしても避けたい妻の死に対して、五郎はやり切れなさを周囲に感情も露わにぶつけてしまう。そうした感情の高まりが、相手も自分も傷つけてしまう。

    五郎には、絵を描くという使命がある。しかし、筆が手に付かない。妻のことも、もちろんあるのだが、時代のそうした不安、自由が真綿で首を絞めるようになくなっていく不安が彼の手を動かそうとしないのではないか。
    五郎は、妻の存在が「周囲の空気まで、自分のものにしないと承知しないのだ」と言うのだが、これは妻が発する「死」の存在の重さ、同時に「生」の存在の重さでもあろう。

    「死」の存在の重さとは、時代の空気感でもあり、その息苦しさを感じているであろうし、「生」の存在の重さとは、「生きたい」という、妻を含めた人々の願いであろう。

    その両方の重さ、存在が五郎を苦しめる。

    これから戦地に征く、親友の赤井と妻の2人が五郎の前にいるときには、「死」が間近にある2人の前にいる。そして、そこに妊娠したと告げる赤井の妻の存在は、「生」を強く感じるのだ。
    「死」の赤井から「生」の赤井の妻を託された五郎は、まさにその2つの狭間にある。

    五郎は、中盤に出てくる、やや荒れ気味の波間に浮かぶ「赤い浮標」のごとく、波に揉まれて大きく動揺している。
    そのため精神は疲れ、言いたくないことや、言ってはいけないことを感情の趣くままに吐き出してしまう。
    その感情の上下は激しいものであり、周囲や自分を傷つけてしまう。

    親友赤井の存在もポイントになる。彼は軍人となり、小説家になることを諦めてしまった(もちろん本心ではなく、小説を五郎に託していくのだから)。それは、妻をよろしくと託したように、自分の「創作への想い」も五郎に託したのではないだろうか。戦地に征くことで自ら「諦めたこと」にしてしまったのだから。五郎の絵を誰よりも認めている赤井だからこそ、強く彼にそれを託して戦地に向かうのだろう。
    それは、彼が必ず受け止めなくてはならない重責である。
    五郎が、赤井の妻の妊娠とともに託されたのは、「生」とそれに結びつく「創造」だったのだ。
    五郎は、砂浜に行き、それを強く感じ受け止めたのだ。

    五郎夫妻の面倒をみる小母さんや、妻の母、妹、弟、出番が少ないものの、彼の友人の1人でもある高利貸しの男、また、善人の塊のような大家さんなど、彼を取り巻く人々が、あるときは彼を支え、あるときは彼を(意図せざるものもあるが)責め、彼を形作っていく。

    ラストは、オープニングの黒ずくめとは異なり、全員が劇中の衣装になっている。しかも、劇中ではまだオープニングの「黒」を残していたのだが、ラストは完全に着替えて全員が登場しているのだ。
    これは、上演を終えて、三好十郎の『浮標(ブイ)』を、出演者全員が体験し、つかんだという、高らかなる宣言であるととった。

    五郎を演じた田中哲司さんは、この長丁場の中、緊張感を常に振りまき、感情を高ぶらせたりする演技は素晴らしいものであった。妻(美緒)の藤谷美紀さんの、病弱ながら強い意志が芯にある様子は胸に迫った。彼らの世話をする小母さん役の佐藤直子さんの明るさと「生」が印象的であった。
    また、美緒の母親役のお貞の娘を想う気持ちと、息子を想う気持ちの狭間にある微妙な様子(つい口をついて出てしまう)がよく、息子の利夫役の遠山悠介さんの空気の読めないぼっちゃんぶり、医者の娘、京子の背伸びしたいお嬢さんぶり、さらに出番が少ないが、大家の裏天さんを演じた深見大輔さんの人の良さが、鮮やかに印象に残る。五郎の親友、赤井を演じた大森南朋さんの戦地(死地)に赴くときに「さっぱりした気分」と言い切りながら、彼の妻が妊娠したことを告げられてからの直接的には表さない気持ちの動揺もよかった。

    舞台は戦中の話であり、今はもう聞かれないような台詞回しもある。しかし、その内容、中心は、まったく古びていない。戯曲の持つ、本当の強さ、骨太さというものを強く感じた。
    かつて観た、東京デスロックの『その人を知らず』も同じ三好十郎さんの戯曲だったが、そのときにも同様のことを感じた。

    強い戯曲に立ち向かえるのは、それをうまく立ち回って処理できるという能力ではなく、やはり強さが必要なのではないだろうか。若さと言ってもいいかもしれない。そうした強さ、若さをもって立ち向かえば、たとえ昔の戯曲であったとしても、現在に上演することに意味(理由、意義、単に存在させることでもいい)を持たせることができるのではないか、ということを強く感じたのであった。

    蛇足ながら、神奈川芸術劇場(KAAT)はとても素晴らしい会場であった。こうした会場ができたことをうれしく思った。

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    2011/01/20 08:20

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