ミッキーアイランド 公演情報 滋企画「ミッキーアイランド」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    観てきました。

    面白かった。

    これ、演劇なのかな、とも思った。

    いい意味で。手紙のような舞台だったから。

    ネタバレBOX

    舞台のセットは海。あの世のよう。

    そのうえに石の舞台。ベッドのよう。

    ラスト、石のベッド…墓石のようなものの両脇に、車椅子とギター。

    これは、ボブ・ディランだろ…と思った。

    そして物語について考えてみる。思い浮かぶのはFukaiproduceの休止。今でも調べれば簡単な休止の経緯の記事が載っているのが読めると思う。

    そして舞台。真面目で悲しい話なのに、笑いで絞らせない。なんか関西の舞台みたい。

    思えば昔のFukaiproduceの舞台というのは、ゼロ年代の演劇のようだった気がする。

    ゼロ年代とそこからの激しい断絶をうまく視覚化してるな、と思ったのはパフュームの衣装の変遷を見たときだった。うまく言えないんだが、パフュームのゼロ年代の衣装とそれ以降の衣装ははっきり違う気がする。みんなパフュームの音楽性が、とか言うが、違うと思う。ブラックピンクはパフュームより世界で知られているが、美術関係者はパフュームよりブラックピンクを注目していないと思う。パフュームがはっきりほかのアーティストと違うのは、日本…というか正確にはゼロ年代からコロナ近辺までの東京のアイコンとして時代の空気を全域で体現したアーティスト集団の記号であるからだと思う。

    僕の思うFukaiproduce羽衣とは、パフュームのゼロ年代の衣装のイメージをそのまま芝居にしたようだった。少なくとも何回か見た感じでは。まぁ全く同じというよりかは、そういうイメージを持ってますよといったところで、僕が思うゼロ年代の音楽、というか芸術とは、変遷はありつつも『①憂い②遊び③少しのゴージャスさ』みたいなのが音符のなかに浮かんで体現されているのが特徴としてある気がし、Fukaiproduce羽衣は、僕の当時感じた雰囲気としては、まさにゼロ年代的なオーラを纏う舞台集団であったと言っても良い気がする。

    今回の佐藤滋プロデュースの舞台は、まるでボブ・ディラン✕羽衣的ゼロ年代へのオマージュ✕関西演劇的な感じというのか。直感的に書いたので、たぶんエーアイよりきれいにまとまっていないと思いますが、すみません(苦笑

    僕にはそれが手紙にも見えた。

    散開?と、それに対する『年取りまくったジジイになっても風に吹かれて車椅子でステージに登場する、ギターを持ったノーベル文学賞受賞者』との対比というのか。もちろん散開?は全然悪いことではない。表現者は全員がボブ・ディランのようにお金があろうと何かを伝えるために車椅子でもステージに出続ける続けることをするべきであるとも言わない。

    僕はボブ・ディランを苗場で見た。彼は車椅子だった。車椅子であるから弱い。ここは強者の楽園であるという人間はそこには誰もいなかったと思うが。今では車椅子は彼のトレードマークでもある気がする。彼が連れてきた空気、そしてその空気に包まれた彼の存在そのものが音楽だと思った。この舞台に出てくるムチムチプリンに歌を贈ろうとするジジイ(かろうじて着拒はされていないようだが…)は、自他ともに認める街の変わり者のようだが、存在そのものが音楽であり、うらまちの語り部であり、物語であり、哀しさであり、転がる石ころだった。

    クリエイターが年取ってまだ、作り続けられるのか?ステージには立って格好良く入場しなければならないのか?

    墓石の上で車椅子とギターで空気と会話し表現して、風に吹かれて生と死を歌い、やがて生み出されたリリックは屍肉のように森の動物たちに分かち合えられて、やがて海に還る。

    自分も思ったけど、クリエイターの人がこの作品を見て、真似できそう…とは思わないはず。

    この作品は切実なメッセージとしての文脈があり、それをステージから読み解こうという森の動物たち(=観客)がいるから成立するもので、一見語りの舞台だが、かなり構造が複雑で読めない。

    批評は構造的にある程度出来る気もするが、この作品は手紙的だから、分析し過ぎると余韻を削る。

    例えば自分の親が死んだ時、その感情を分析して満足する人がいるだろうか?

    死んで土に還る。ミュージシャンはエコ。アーティストもそうあるべきだと思う。世の中のたいていの職業よりエコ寄りというのか…。エコでインディアンのような彼らは、たいていは生前は街の変わり者で、死んでから表現者の手で神話になる、あるいは表現のツールとなることで生き返る例が多い気がする。神話になる変わり者が裏町にいなかった町は薄い。

    なんかそんな感じの実は深刻な話を笑いながら酒場の冗談のように語るから、こちらも少し戸惑ってしまう。

    ドイツ語で言うところのシェーンハイトでまちの表が覆われていると、裏は死体ばかりになる。イェリネクの作品がまさにそうした危惧を表現した作品たちだった。岸田國士も長生きしていたらそんな作品を残したのかもしれないと思うような。

    この舞台を軽く構造的に見ると、戯曲としては岸田國士戯曲賞を目指していない香りを感じた。絶対ではないが。

    物語としてはゼロ年代的な演劇空気を、女の子に歌を贈るボブ・ディラン的というのか…インディアンとかロックとかみたいな輪廻転生的エコ空気感も含めて男の物語として再生し、悲しすぎないように関西演劇的な笑いのフォーマットでくるむ。

    観客(=森の動物たち)の笑いの空気で祝祭的に海の上に浮かぶ墓石のステージで起こる神話を眺める。メキシコに行ったことはないが、架空のメキシコのまちの、その街で愛された聖なる酔っ払いの葬式をみんなで出したらこんな感じになるのではないかと思った。酔っ払いでムチムチプリンに空気読めずに歌を贈ろうとして着拒される聖者…着拒はされてなかったんだっけ?イェリネクの提示した恐れに対するヨーゼフ・ロートのシェーンハイトとは真逆の聖なる酔っ払いの神話というのか…。

    例えば町一番の権力者や、権力者の愛好したナショナリズム的シェーンハイトを追悼しても恐怖しか伝えられないかもしれないが、裏町で愛された転がる石ころ、聖なる酔っ払いを追悼すると愛を伝えられる。

    この差は大きい。

    海の上のピアニストというのがあったが、そんなイメージのような。海の上を航海する墓石の上には、やがて旅人が風に還って消えたあと、車椅子とギターが遺される。

    まさに立体的で、平面的な戯曲の上で台詞が迷路のように縦走する岸田國士的というのとは真逆な気がする。

    でも、本当にそうなんだろうか?岸田國士は戦争が長く続いた歪んだ空気だからこそ、そのような表現手段をとった。

    縦走に巡らされた台詞の上から、登場人物の人となりが浮かんでくる。

    当たり前だが彼の戯曲の主役は空気ではない。空気から浮かんでくる人間そのものなのだと思う。

    ついつい戯曲の完成度が目を見張ると空気に目がいきがちだが、そのさなかから浮かんでくるどうしようもない人間を冷徹に表現したのが岸田國士とも言える。

    そういう意味では、本質的なところで岸田國士と全く同じであるとも言える気がする。

    戯曲も車椅子も似たもので、墓石の上に連れてってはくれるが、やがて屍肉を食べられて風になったときに遺るその人物の存在感というか、輪郭、それが芸術の全てだと僕は思う。

    なんか分析してしまうとすぐに消費されてしまうから、批評は芸術の敵みたいにならないように退散してみる。

    分析は、自分なりには何でもたいてい出来る気がするが、分析しすぎないほうがいい場合も多い。正確に言うなら下手に批評するのが良い。あまり完成しすぎるのは良くない気がする。未完成のサグラダ・ファミリアのように。完成するとそれで終わった感じがして、批評が観客の心を覆い始める場合がある。もちろんそうではない。批評は付録であり、海の上の風見鶏程度のものでしかないから。見るも見ないも自由。

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    2026/03/19 23:48

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