ミッキーアイランド 公演情報 ミッキーアイランド」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-6件 / 6件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    初観劇の劇場でした
    キャパ80人くらいで満席でした
    独り暮らしのアパートの中でミュージカルの説明文にそそられて観に行きました
    ミッキーアイランドってオチは想像できませんでした

    小竹向原での観劇は超超久しぶり・・どこだったっけ?
    地図見て)
    ん?駅のこっちだったか?で
    コモネスタジオと勘違いしてました
    てかあの子まだ役者やってるのかなあ・・

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    観てきました。

    面白かった。

    これ、演劇なのかな、とも思った。

    いい意味で。手紙のような舞台だったから。

    ネタバレBOX

    舞台のセットは海。あの世のよう。

    そのうえに石の舞台。ベッドのよう。

    ラスト、石のベッド…墓石のようなものの両脇に、車椅子とギター。

    これは、ボブ・ディランだろ…と思った。

    そして物語について考えてみる。思い浮かぶのはFukaiproduceの休止。今でも調べれば簡単な休止の経緯の記事が載っているのが読めると思う。

    そして舞台。真面目で悲しい話なのに、笑いで絞らせない。なんか関西の舞台みたい。

    思えば昔のFukaiproduceの舞台というのは、ゼロ年代の演劇のようだった気がする。

    ゼロ年代とそこからの激しい断絶をうまく視覚化してるな、と思ったのはパフュームの衣装の変遷を見たときだった。うまく言えないんだが、パフュームのゼロ年代の衣装とそれ以降の衣装ははっきり違う気がする。みんなパフュームの音楽性が、とか言うが、違うと思う。ブラックピンクはパフュームより世界で知られているが、美術関係者はパフュームよりブラックピンクを注目していないと思う。パフュームがはっきりほかのアーティストと違うのは、日本…というか正確にはゼロ年代からコロナ近辺までの東京のアイコンとして時代の空気を全域で体現したアーティスト集団の記号であるからだと思う。

    僕の思うFukaiproduce羽衣とは、パフュームのゼロ年代の衣装のイメージをそのまま芝居にしたようだった。少なくとも何回か見た感じでは。まぁ全く同じというよりかは、そういうイメージを持ってますよといったところで、僕が思うゼロ年代の音楽、というか芸術とは、変遷はありつつも『①憂い②遊び③少しのゴージャスさ』みたいなのが音符のなかに浮かんで体現されているのが特徴としてある気がし、Fukaiproduce羽衣は、僕の当時感じた雰囲気としては、まさにゼロ年代的なオーラを纏う舞台集団であったと言っても良い気がする。

    今回の佐藤滋プロデュースの舞台は、まるでボブ・ディラン✕羽衣的ゼロ年代へのオマージュ✕関西演劇的な感じというのか。直感的に書いたので、たぶんエーアイよりきれいにまとまっていないと思いますが、すみません(苦笑

    僕にはそれが手紙にも見えた。

    散開?と、それに対する『年取りまくったジジイになっても風に吹かれて車椅子でステージに登場する、ギターを持ったノーベル文学賞受賞者』との対比というのか。もちろん散開?は全然悪いことではない。表現者は全員がボブ・ディランのようにお金があろうと何かを伝えるために車椅子でもステージに出続ける続けることをするべきであるとも言わない。

    僕はボブ・ディランを苗場で見た。彼は車椅子だった。車椅子であるから弱い。ここは強者の楽園であるという人間はそこには誰もいなかったと思うが。今では車椅子は彼のトレードマークでもある気がする。彼が連れてきた空気、そしてその空気に包まれた彼の存在そのものが音楽だと思った。この舞台に出てくるムチムチプリンに歌を贈ろうとするジジイ(かろうじて着拒はされていないようだが…)は、自他ともに認める街の変わり者のようだが、存在そのものが音楽であり、うらまちの語り部であり、物語であり、哀しさであり、転がる石ころだった。

    クリエイターが年取ってまだ、作り続けられるのか?ステージには立って格好良く入場しなければならないのか?

    墓石の上で車椅子とギターで空気と会話し表現して、風に吹かれて生と死を歌い、やがて生み出されたリリックは屍肉のように森の動物たちに分かち合えられて、やがて海に還る。

    自分も思ったけど、クリエイターの人がこの作品を見て、真似できそう…とは思わないはず。

    この作品は切実なメッセージとしての文脈があり、それをステージから読み解こうという森の動物たち(=観客)がいるから成立するもので、一見語りの舞台だが、かなり構造が複雑で読めない。

    批評は構造的にある程度出来る気もするが、この作品は手紙的だから、分析し過ぎると余韻を削る。

    例えば自分の親が死んだ時、その感情を分析して満足する人がいるだろうか?

    死んで土に還る。ミュージシャンはエコ。アーティストもそうあるべきだと思う。世の中のたいていの職業よりエコ寄りというのか…。エコでインディアンのような彼らは、たいていは生前は街の変わり者で、死んでから表現者の手で神話になる、あるいは表現のツールとなることで生き返る例が多い気がする。神話になる変わり者が裏町にいなかった町は薄い。

    なんかそんな感じの実は深刻な話を笑いながら酒場の冗談のように語るから、こちらも少し戸惑ってしまう。

    ドイツ語で言うところのシェーンハイトでまちの表が覆われていると、裏は死体ばかりになる。イェリネクの作品がまさにそうした危惧を表現した作品たちだった。岸田國士も長生きしていたらそんな作品を残したのかもしれないと思うような。

    この舞台を軽く構造的に見ると、戯曲としては岸田國士戯曲賞を目指していない香りを感じた。絶対ではないが。

    物語としてはゼロ年代的な演劇空気を、女の子に歌を贈るボブ・ディラン的というのか…インディアンとかロックとかみたいな輪廻転生的エコ空気感も含めて男の物語として再生し、悲しすぎないように関西演劇的な笑いのフォーマットでくるむ。

    観客(=森の動物たち)の笑いの空気で祝祭的に海の上に浮かぶ墓石のステージで起こる神話を眺める。メキシコに行ったことはないが、架空のメキシコのまちの、その街で愛された聖なる酔っ払いの葬式をみんなで出したらこんな感じになるのではないかと思った。酔っ払いでムチムチプリンに空気読めずに歌を贈ろうとして着拒される聖者…着拒はされてなかったんだっけ?イェリネクの提示した恐れに対するヨーゼフ・ロートのシェーンハイトとは真逆の聖なる酔っ払いの神話というのか…。

    例えば町一番の権力者や、権力者の愛好したナショナリズム的シェーンハイトを追悼しても恐怖しか伝えられないかもしれないが、裏町で愛された転がる石ころ、聖なる酔っ払いを追悼すると愛を伝えられる。

    この差は大きい。

    海の上のピアニストというのがあったが、そんなイメージのような。海の上を航海する墓石の上には、やがて旅人が風に還って消えたあと、車椅子とギターが遺される。

    まさに立体的で、平面的な戯曲の上で台詞が迷路のように縦走する岸田國士的というのとは真逆な気がする。

    でも、本当にそうなんだろうか?岸田國士は戦争が長く続いた歪んだ空気だからこそ、そのような表現手段をとった。

    縦走に巡らされた台詞の上から、登場人物の人となりが浮かんでくる。

    当たり前だが彼の戯曲の主役は空気ではない。空気から浮かんでくる人間そのものなのだと思う。

    ついつい戯曲の完成度が目を見張ると空気に目がいきがちだが、そのさなかから浮かんでくるどうしようもない人間を冷徹に表現したのが岸田國士とも言える。

    そういう意味では、本質的なところで岸田國士と全く同じであるとも言える気がする。

    戯曲も車椅子も似たもので、墓石の上に連れてってはくれるが、やがて屍肉を食べられて風になったときに遺るその人物の存在感というか、輪郭、それが芸術の全てだと僕は思う。

    なんか分析してしまうとすぐに消費されてしまうから、批評は芸術の敵みたいにならないように退散してみる。

    分析は、自分なりには何でもたいてい出来る気がするが、分析しすぎないほうがいい場合も多い。正確に言うなら下手に批評するのが良い。あまり完成しすぎるのは良くない気がする。未完成のサグラダ・ファミリアのように。完成するとそれで終わった感じがして、批評が観客の心を覆い始める場合がある。もちろんそうではない。批評は付録であり、海の上の風見鶏程度のものでしかないから。見るも見ないも自由。
  • 実演鑑賞

    終演後に「滋企画の次回公演は来年3月に『ガラスの動物園』を再演いたします」というアナウンスを聞き、思わずニヤリとしてしまいました。今作『ミッキーアイランド』から『ガラスの動物園』まで、団体が取り扱う作品の幅がとても広い。これもまた、団体や主宰・佐藤滋の特性のひとつなのかも。

    外部から糸井幸之介を招き、アトリエ春風舎で上演される妙ージカル(妙なミュージカル)。期待が高まります。

    ネタバレBOX

    公演チラシに記載されているあらすじどおり、もうすぐ古希を迎える男性ロッカーがライブハウスで腰を痛め、自室のベッドで横になったまま動けず過ごす…という物語。幼少期の母親との思い出、離婚した元妻と出会った思い出など、男の過去エピソードも複数挿入され、男の現在と過去がゆっくり浮かび上がる。中盤に挿入された、長尺の台詞のないシーン(クラシック音楽に合わせて俳優たちが乱舞するようなシーン)や、エンディング的に上演されるテーマ曲『ミッキーアイランド』など、台詞以外で魅せるシーンが多かったことも、糸井作品ならでは。物語の表層的には、愛するロックを追い求めて自由に生きた男の晩年(?)を明るく愛嬌たっぷりに描いているが、その裏側には悲哀や絶望も潜んでいるはず。個人的には「ダメを肯定する」ことも、小劇場演劇の魅力のひとつと考えます。経済力も社会的地位もないが、周囲の人々から愛され、つつましく命を全うしようとする男の生き様に、独自の哲学を見た気がしました。
  • 実演鑑賞

    満足度

    観てきました☆ なんだか全体的にイマイチでした☆ 羽衣の『瞬間光年』また観たい☆

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2026/03/09 (月) 19:30

    2024年に解散してしまった FUKAIPRODUCE羽衣では妙ージカルと銘打って糸井幸之介さんの作/演出/音楽で上演され、大好物だった。滋企画が糸井さんの作/演出/音楽で作りあげた、たっぷり丸ごと糸井作品!出演の永井茉梨奈、井上みなみ、岡本陽介、木村友哉、佐藤滋が
    歌い、踊り、演じ、観客はひたすら楽しみまくる 115分!いやー楽しかった!青年団が観劇を始めた時の導入/中心の劇団だったので、佐藤滋さんと井上みなみさんのデュエットのシーンは眼福!

    其角とでも書くのだろうか、主人公を演じる佐藤滋さんは圧倒的な、でも初めて見せる一面だ!視覚的な主人公?の岡本陽介さんは振付も岡本さんだろう、フル稼働!母性を担う永井茉梨奈さんは妙ージカルに相応しく歌いあげる!井上みなみさんの歌声を聴けただけでも元は
    取った 笑!いや、軽やかなダンスも!木村友哉さんはキカ君と対マンを張るラウドボイスに妙作動!5人のハーモニーとアンバランスが素晴らしい!

    終盤のドボルザークの曲に載せての長尺のシーンは個人的な観劇史上、初めてだと思う長い長い展開、それが潔く素晴らしい!

    97歳の母が大晦日に腰の骨を折って、現在介護中、車椅子でリハビリテーションや歩く練習の補助、簡単な料理を作って食べてもらう。年齢なりに覚えている子供の頃のことは覚えていて良く話す母、もう重なりまくりで涙が出て来た。いや、その前に自分自身がこの前古希だったし 笑。

    初日を拝見したあと、アトリエ春風舎の劇場支援会員は繰り返し観れるので、劇場を出て直ぐ 2回目を予約した。5人の圧倒的なハーモニーを浴びるのにどの席にすべーと今から考えている。いや初日 4列目の真ん中に座りながら考えていたのだけど、もう少し引きで拝見するかな。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    毎年この時期の恒例となった滋企画の今回は初のオリジナル、糸井幸之介氏脚本・音楽を佐藤氏主役にて。脇を固める四名と醸すグルーブ感、ある意味滋企画が持てる<躍動力>を試したら凄かった的な。糸井氏が紡ぐ例のアノ世界観が、役者陣との邂逅を果たした幸運に興奮といった所であった(何のこっちゃ)。
    昨年「ガラスの動物園」が賞も獲り、知名度も上っただろうが会場はアトリエ春風舎。満席ではあったが集客具合は不明。ただ今回は期間が長い。労働量的には役者も大変だが本人達的には悦びが大きいかも(運動量は半端ないが)。
    毎回色んなベクトルでの演劇の可能性の追求が為されているのが好ましく、今回も満足させられた。喩えは陳腐だが美味い料理を味わった感じ。観てのお楽しみである。

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