公演情報
ニットキャップシアター「土曜日の過ごしかた」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/28 (土) 14:00
舞台は戦前の京都の喫茶店です。
当時、京都近辺の喫茶店には『土曜日』という新聞が置かれていました。
発行者は松竹の大部屋俳優であった齋藤雷太郎。
彼は大陸での戦争が激化する時代に、庶民感覚とユーモアを交え、政府に堂々と物申す内容を発信していました。
この京都を舞台として、ほぼ全篇京都弁な上、地域新聞『土曜日』と、『土曜日』が置かれた和洋折衷感がある喫茶店、その喫茶店の店員や女将さん、その店の常連客、『土曜日』に記事を書く人たち、そして特別高等警察(略称特高)を中心とした、軍や政府の中枢中心でなく、市井の人々を中心として、時にコミカルに、時にシリアスに描き、日常が徐々に戦争に侵食されていく過程を丁寧に描いており、戦争に日本が突き進んでいく中でも、そういった人たちの中に日常があったところに重きを置いた劇作品は、ありそうで、あまりなかったので、良いところに目を付けた作品だと感じた。
劇中、地域新聞『土曜日』は、極端な右とか、左の論調に偏るのではなく、純粋な映画評論や、市井の人々が純粋に気になっている芸能人のゴシップ、一部の企業が優遇されて、自分たち市井の人々の方が高い税金を払わされることへの疑問など、市井の人々の生活や興味関心を買う記事が大方を占めていた。
それは、なぜかといえば、思想信条を強く打ち出したり、政府批判を露骨に強めたりすると警視庁官房内の特高に目を付けられるので、新聞の存続の為、芸能人ゴシップや、映画評、等の娯楽を中心とした只のエンタメ紙を装うことで、特高の検閲を上手くかわせるという在り方が、太平洋戦争は始まっていないものの、日中戦争は始まっている中で、日本国内ではある程度の自由がありつつ、徐々に新聞等に対しても弾圧が酷くなる中で、何とか生き残る為の苦肉の策でもあったのかと考えさせられた。
下手すれば、新聞社が潰されるにとどまらず、記者は勿論のこと、新聞に関わる人たちが一斉検挙されたりしかねない時代の空気になっていくなかで、そんななかで自由にものが言える空間作りのために、大部屋俳優の斎藤雷太郎が知恵を絞って、一見するとエンタメ紙のように装うことで難を逃れようとする、こう言った機転を効かせないと新聞が発行できなくなっていっていた当時は、どれだけ自由がなかったのかとも言えるが、ふと現代社会を振り返ると、今の時代が自由かというとそうとも言い難くなってきている状況と、当時の状況が重なって見える場面が何度かあり、薄寒くなった。
最初市井の人々向けのエンタメ紙だった筈が、段段と政府や軍への批判が濃厚な記事なども載り出し、そのうち『土曜日』を置く喫茶店の女将の白瀬ノブが次女の白瀬タカが店の奥にレジスタンスを匿い、無理が祟ったのか次女の白瀬タカが病気になり、それも実は誰の子か分からない子を身籠っていることが分かってきたりで、女将の白瀬ノブは抱えきれなくなり、つい店の常連客の1人で、特高の下っ端に悩みを打ち明けたことから、次女が匿うレジスタンスだけでなく、新聞『土曜日』に関わる人たちが次々に捕まる結果になっていく、そして喫茶店の女将白瀬ノブはこんな筈ではというふうな複雑な気持ちになり、追い詰められていく、そういった日常がふとしたところから、大きく崩れ落ちていく描かれ方が、リアルだった。
『土曜日』に映画評論を載せていた大学教授が、担当の特高刑事に誘導尋問されて、自分の意に反した調書を書かされるあたり、近年話題となっている(昔からあったが)冤罪問題と、かなり重なって見えて、こうやって冤罪って成立するのかと思うとゾッとした。
また、教授に対して、露骨にパワハラ的な態度や言動に出ることはないし、寧ろ表面上はにこやかなのだが、机を叩いたり、決め付けるような発言もなければ、親や家族を引き合いに出して脅すこともしない。
だが、教授とともに、他の特高刑事たちも誘って、気晴らしに鰻屋に行ったりもするが、全額教授の奢りといったところなどで、教授に屈辱を味わわせ、プライドを徐々にズタボロにしていく作戦を取ることで、特高側の意見に誘導していく在り方が、見た目から分かる脅しや威圧よりも高等テクニックなだけに、特高に対する得体の知れない怖さが倍増した。
一般的に私たちが特高をイメージする時の、露骨な暴力的で冷酷非道で、血も涙もない、人間味の欠片もないような人物として、ハッキリと描かないぶん、中身の見えない怖さや威圧を感じ取れた。
特高が、言わば、自分たちとは関係のない人間としてではなく、観ている側も含め、人が持っている弱さや劣等感などの延長線上に出来上がっていく組織だと感じ、被害の立場から、人は加害の立場へもなり買われることを立証している気がして薄寒くなった。
ほぼ全篇京都弁と言うことで、会話が一見すると上品で優雅、優しく聞こえるが、節々に、皮肉や裏があったりと言った風に描かれていて、今でも使われる京都弁と全く一緒ではないものの、京都府民が大阪府民や外部の人で京都府民になろうとする人に対して、表では優しく、裏では冷たく下に見ているといった部分が共通して見える場面もあり、多少誇張して描くことで、結構笑えた。
劇中、韓国仮面劇『マダン』に習ったかのような仮面が大量に出てきて、しかも敢えて無個性で何処か不気味にさえ見える仮面を使っており、その仮面が、喫茶店の付近等に所々顔を出す演出が、何処で誰に見られ、聴かれ、噂されているか分からない、段々と戦争色が濃くなっていく過程、異議を唱え辛い、空気を読み、周りを気にして、皆同質化していく、危険性を暗に描いており、今とも何処か共通した部分を感じ、緊迫感と身に迫るものを感じた。
ハッキリと劇を通して、爆撃の場面こそ描かないものの、徐々に戦争に突き進んで、段々と自由にものが言えなくなり、書けなくなり、派手な服装どころか、爽やかな麦わら帽子1つ被れない状況になっていく過程、気付くと身動き1つ取れなくなっている恐ろしさが、喫茶店の舞台セットが徐々に狭まっていく演出などによって、視覚的にも効果的に観る側にひしひしと伝わってきた。
トークショーでは、劇団チョコレートケーキの古川健さんをゲストに迎えてのトークだったが、劇を観ていて、現代社会の状況とあまりにもリンクした状況に恐怖を覚えた感覚など、私が感じたものと似たような感想を仰っていて、喫茶店のセットが狭まっていくことに関する感想も含めて、私が感じたものと似ている部分が多くあり、劇団チョコレートケーキの古川さん含め、共通して感じた部分も多くあるんだなぁと感慨深くなった。
今、同調圧力等を身に沁みて感じ、生き辛い社会だからこそ、忖度せずに、自由に発言することの大切さを強く感じた。(まぁ、だからといって、SNSで誹謗中傷するのは違うと思うが)
自由に闊達に、発言し、書き、音楽を楽しみ、演劇や映画を自由に誰の目を気にすることもなく観て楽しむことができ、おかしいと思ったことをちゃんと批判出来て、行政府や警察等に弾圧されず、今だったら自衛隊に徴兵されたりしない世界は、こう言った平和、民主主義な社会は常に私たちが今の生活に満足せず、常に行政府の動向に気を付け、些細な異変にも直ぐに声を上げることが大事だと、今回の劇を通して再確認させられた。