クリストフ・マルターラー『巨大なるブッツバッハ村ーある永遠のコロニー 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「クリストフ・マルターラー『巨大なるブッツバッハ村ーある永遠のコロニー」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    staying alive!
    現代を生き続けるということは、カオスの中にあるということ。
    一見無秩序にあるカオスは、渦を巻いており、その渦は「町(という「場」)」の中だけで起こっている。

    ネタバレBOX

    ブッツバッハという町は、ドイツの古い町らしい。
    それはそうとして、舞台の上には、発酵組織研究所がデンとしてあった。しかし、その内部は、町がすべて押し込められているようである。
    一般住民が生活するガレージ、銀行、街頭、経営者のいる事務所等々。

    それにしてもドイツ人はカオス好きではないか。カオスと言っても計算されたカオスとでもいうか(計算されたのならば、カオスというよりはフラクタルなのかもしれないが)。

    観ながら感じたのは、ドイツのロック。
    例えば、60~70年代のAMONDULLとかFAUSTとかGuru Guru、80年代のEinsturzende Neubauten、(極初期の)DAFなど。
    これらはドイツ(西ドイツ)特有の現象で、他国でも似たようなアプローチがあるのだが、やはり独特であり、独自ではないだろうか。
    そこにあるのはカオスだ。

    それをこの舞台から感じた。
    FAUSTやEinsturzende Neubautenのような破壊衝動はなく、AMONDULLのような政治的メッセージがないカオスだ。

    現代を切り取る舞台だからこそ、逆にカオスであるのは「現実」ではなかろうか、というよりは、そうあって当然である。

    現代を生き続けるということは、カオスの中にあるということ。
    一見無秩序にあるカオスは、渦を巻いており、その渦は「町(という「場」)の中だけで起こっている。町は社会であり、今の体制であると言ってもいいかもしれない。
    経済の破綻も渦の中だけのことであり、社会からあふれ出ることはないのかもしれない、という予感があるのだろう。
    旧弊な社会のシステムの中にすべては留まっているということ。
    それはドイツの現状なのだろう。もちろん、日本でも同じだ。

    経済の進行による歪みの予測は不可能であり、資本主義も頭がつかえてしまっている閉塞感。
    その中にいる「私」は「何者」なのかという問い。消費しているラベルやブランドが私ではないのかという不安。
    それらは、混沌としていて、ぐるぐる回るだけ。

    一般市民(庶民)の声(歌)は、ささやかで慎ましく、貧相なガレージの中だけで歌われる。しかし、その歌は、事務所にいる経営者(支配階級)が「うるさい」と思うときにはドアを閉められて、聞こえにくくなってしまう。
    ドアを閉められるだけでなく、開けることもさえも彼の自由である。

    それは、ずっと続いていることなのだという暗示が、ラストに経営者が、チロルの上着に半ズボン、羽根の付いたチロルハットという民族衣装で現れ、庶民が歌うガレージの扉を開け閉めすることで行われる。

    2時間を超え、字幕を追いながらの観劇であるが、コロスの導入や、やや(声を出して笑うというより顔をゆがめる感じの笑い)歪んだユーモアが計算されており、とても楽しめた。
    そして、弛緩とも言えるような「間」や「繰り返し」が心地好くさえある。

    歌がとてもよかった。合唱もだが、経営者の独唱が素晴らしいものだった。
    また、合唱がオフの状態で聞こえたり(壁の向こうから聞こえる)、その場での演奏や、壁にツメを立てたり、喉を鳴らしたりするなど、音の聞こえ方(聞かせ方)にも工夫があり実に楽しい。

    字幕だが、誤植が目に付いた。これはいかがなものか。訳自体も、例えば、ことわざのパロディのあたりは意訳だろうということで、なんだかなぁだったし。
    それと、関係者笑い(1人だけ)も気になった(ホントに笑うところなのか、も含めて)。ラストの拍手が、飛び抜けて1人(たぶんその人だろう)だけ早くて、ちょっと白ける。
    毎回思うのだが、こういうのって、舞台の面白みを半減させてしまうことに気がついていないのかなあ。

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    2010/11/21 08:49

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