五反田団『迷子になるわ』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「五反田団『迷子になるわ』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    見えてるのに手探りで歩く、心の地図の中
    物語の展開、重ね方、つなげ方の縦横無尽さ、そして台詞回しに前田節が炸裂してた。
    面白い!
    笑いの散りばめ方やセンスも好きだ。

    これは大好きだな。

    ネタバレBOX

    考えすぎると迷子になってしまう。
    そして、それは、誰もが同じ状況にある。
    そんな物語。

    装置・セットが、いい感じ。
    下手の奥には、体育館にあったような縄がぶら下がる。
    その縄は、頭5分の1ぐらいが白くて、残りは赤い色をしている。
    ライトが当たったその姿を見て、すぐに連想したものがあった。
    それは「東京タワー」。
    ストーリーが展開していくに従って、それは想像通り「東京タワー」として使われていた。自分のイメージとマッチして、ちょっとうれしい(笑)。
    整然と並べられているイスが東京の街並み、ビルに見えてくる(もう少しいろいろなイスがあったほうが、雑然とした東京っぽいと思ったのだが)。

    主人公の女性とそのボーイフレンドは、その縄の「東京タワー」を目指して歩いたりする。

    「東京タワー」は、東京一の「ランドマーク」である(もうすぐとって変わられようとしているが)。
    スカイツリーにはない、人々の記憶がこびり付いているのが、東京タワーであろう。だてに50年間も建っていないということ。それぞれの記憶の片隅にある赤い東京タワー。
    とても象徴的な建造物。

    考えすぎて、迷子になり、過去や未来や場所まで、右往左往している人にとっては、心の中に是非ともほしいと思うような象徴でもあろう。

    自分の歩く道の先に、あるいは、その道が正しいのかどうかを知る術としての「ランドマーク」(できれば「自分のランドマーク」)があれば、どんなに素敵だろうかと思う。

    ぼんやり自分の道を歩いているときに、ふと周りを見回すと、周囲の人たちは、自分の道を信じて歩いている人ばかりに見えてしまう。
    主人公の年齢(20代後半から30代)ともなれば、同世代の人たちは、自分の歩く道を見つけて歩いている人ばかりに見えてしまう。

    でも、それは他人の目からそう見えるだけで、本人は、周囲が見えるのに、暗闇の中のような気分を手探りで歩いているのだ(よっぽどの人じゃない限り、たぶんね)。

    そのときに「自分のランドマーク」があればどんなにいいだろう、と思うことは当然あるだろう。

    自分のランドマークも、自分が歩くべき道も見つからず、迷っている。
    そういう人にありがちなのは、(考えすぎて)自分の内側に入り込んでしまうということだ。
    だから、劇中では、主人公は、自分の中の「穴」に入り込むというところまで進んでしまう(ここの表現は面白かった!)。これには「おお!」と思った。

    主人公は迷いすぎて、現実世界から退行してしまう。だから、非現実の助けがないとやっていけない、そこで、「いるはずのない姉」という。虚構の登場人物と語ることになるのだ。
    それがホンネであり、救い、安全弁にもなっている。

    過去や未来や、そこでの登場人物が錯綜する中でも、意外と淡々としている主人公。
    これは、混乱の極致に達してしまっているからだろう。
    もう、「受け入れるしかない」混沌さ、迷い子さ。
    とにかく「歩」を進めるしかない。
    ボーイフレンドと延々歩くというのがいい。

    そして、ラスト。
    主人公は、自らの内側から脱出するために、「東京タワー」をよじ登る。やけくそなのか、悟りなのか、目覚めなのかはわからないが、2次元の平面を4次元の軸を踏みしめつつ、3次元への新たな方向へ向かおうとする。それは逃亡であってもいいと思う。(偉そうに言えば)「あがくこと」こそ大切なのだ。
    じっとしていてもしょうがないから、「行けるところには行ってみる」という姿勢が必要なのだ、ということ。
    それは、とてもいいラストだったと思う。

    それにしても、なんとも言えない展開と台詞回し、そして、お母さん、お父さんの表現にはやられた。
    一見、飛び道具的なのだが、お母さんの存在感の具象化、そして、お父さんの存在感の「ついで」さ(家族の気配というか)、さらにお父さんの自分への影響などが、一連の展開ですべて見えてくるという演出がうまい。
    医者と看護師が両親というのも意味深だし。

    笑いもいいい感じに散りばめられていて、本当に面白いと思う。

    だから、五反田団は好きだ。



    とても個人的なことだけど、その昔、「東京タワーが見える」ということで、武道館あたりから東京タワーまで、意味もなく彼女と2人で歩いたことがある。そう、まるで劇中の2人のように。若いカップルっていうのは、むやみに歩いちゃうものなんだよなあ、と昔を思い出しながら観たのだった。

    9

    2010/11/06 22:30

    0

    0

  • johnnyさん

    丁寧に返信ありがとうございます。

    役者さんを目指してらした時期もあったんですね。
    と、言うことは、役者さんの気持ちまでもくみ取って観ることができるということでもあるのですね。それは素晴らしい。あちら側の立場に立って観るというのも、面白いかもしれません。

    五反田団のあのしゃべりがダメならば、私の好きなヨーロッパ企画(本公演のほう)もたぶんダメかもしれません。もっと普通の若者たちのごちゃごちゃしたしゃべりですから(笑)。
    それがあまりにも普通に見えてしまうところが、彼らのうまさだと思うのです。普通にしゃべっている、という演技を何ステージもこなすという凄さは、舞台の上で普通すぎて伝わらない感じでもありますが。

    と、書きましたが、もしご覧になっていないのであれば、余計な情報だったかもしれません(笑)。

    フィルターがあるなしにかかわらず、ひとつの見識、見方としても、johnnyさんの「観てきた」は「ほお」とか「へえ」とか思うことは多々あります。
    ですから、また、読ませていただきますので、今後ともよろしくお願いいたします。

    2010/11/18 06:54

    アキラさん、早速のお返事、それも大変!な長文、どうもありがとうございます。
    元々は私があまり自分の考えが整理しきれていない段階で、コメントしてしまったことに端を発してますね。ここまでお付き合いいただいて、なんだか大変恐縮です。

    >「こうあって欲しい」というこちら側の期待をあまり押し付けるつもりはなく、

    とおっしゃっている通り、確かに私、観るとき押し付けてますね(笑)。より正確に言うと、「こうあって欲しい」という「フィルター」を自分と舞台に間に置いて観ているなあとは感じています。数年前まで私も実際にプロの演出家が教える演劇学校に通い、芝居の稽古に明け暮れた時期があります。その影響は大きいかなと思っています。今は完全に観る側になり、「自分にとっておもしろい舞台は何かないか」というスタンスで、これまで観たことのないカンパニーの公演の観劇にトライしていますが、アキラさんのように「作者(と劇団)が表現したかったことを、できるだけストレートに受け取りたい」とは正直、あまり思っていないですね。でも、少なくても今はそれで良いかと思っています。今後色んな芝居を観る中で、変わってくるかもしれませんが。

    あと、

    >女性が主人公でその気持ちを丁寧に描いた作品は、琴線に触れないということなのでしょうか? もし、そうだとすれば、女性が主人公の作品は多いと思いますので、観劇がかなりもったいない感じになるでは?

    とおっしゃっていますが、これもそう言われればそうかもしれません。近いところだと今年の5月にあった劇団、本谷有希子「甘え」という作品なんかが、さっぱり分からなかった(笑)。女性が主人公で、父親を初めとした人間関係のもやもやを心に澱のように溜めて生きる女性を(おそらく)描いた作品でした。芝居の完成度としてもクエッションが付くと思いましたが、それ以上に脚本に何が描かれているのか、何を描こうとしているのかが全く理解不明で、かつそれをあれこれ考えようという気も起きなかったですね・・・。まあ、もったいなといえばそうかもしれませんが、こういう偏狭な自分だから演劇なんかをこうも好きで観ているという見方もあるわけで・・・。

    アキラさんが今回の「迷子になるわ」のどこを面白いと思っていらっしゃるか、十分に伝わっていますよ。ただ私としては上で書いたように「フィルター」を用いて観ているので、そもそも閉塞感をあんなに巧みに!描く芝居自体を心情的に好きになれないのでしょう。そしてご指摘の通り、五反田団風のしゃべりが合わなかったのです。

    2010/11/16 00:10

    今、自分がコメントに書いた文章を読み返してみると、何が面白かったかを書いているわけでもないですし、なんだか……ですね(笑)。

    johnnyさん

    あ、そんなこと思っているんだ、という程度で読み流してください(笑)。

    2010/11/15 13:37

    johnnyさん

    またまたコメントありがとうございます。

    そのシンポジウムは面白そうでしたね。
    なるほど、そういう見方もあるのかと思いました。
    ただ、その方のおっしゃっていることは、いまいちピンと来ませんでした。
    それはその方にとっての分類なのでしょうね。そういう分類方法もあるのかもしれない、ということですね。私は、そう単純(そこに書かれているように)に分けられないものだと思うからです。まあ、評論をする方にとっては、分類しないと論じにくいということもありますけど。


    johnnyさんのプログも拝見いたしました。
    ここでお書きになっていることと、こりっちでお書きになっていることの総集編(笑)で、なるほどそう感じてらしたのかと納得いたしまた。

    残念ながら、私は、面白かったものが「どう面白かった」のかをうまく伝える術を持っていませんので、結局、私の感じた「面白さ」は伝えることはできないのですが、johnnyさんのお書きになっているような「ロックで、現状にアンチであってほしい」とは私は特に感じていないのと、「べったりした気だるいしゃべり方や振る舞い」とも感じていないということが違いかもしれないと思いました。
    「こうあって欲しい」というこちら側の期待をあまり押し付けるつもりはなく、作者(と劇団)が表現したかったことを、できるだけストレートに受け取りたいと思っているという感じでしょうか。

    ただし、今回の五反田団が「現状にアンチでもないし、ロックでもない」とは思っていないのです。
    例えば、破壊(衝動)や変革だけが現状に対するアンチや、ましてはロックではなく、内側に籠もることも、何かに対するアンチであり、ロックではないかと思うのです。
    何か「見えているモノ」に対して、反抗したり破壊したりというのは、表面的なことであり、本質的なロックな(あるいはアンチな)精神はもっと別のところにあると思っています(もちろん、表面的にもロックでありながら、精神的にもロックな作品もたくさんありますが)。
    今回の舞台で言えば、気持ちをザワザワさせる何かがあったと思いますので、そこが「ロック」な部分かもしれないと思うのです(ここでは、あえて「ロック」と書いてますが、「ロック」であってもなくてもどうでもいいとも思ってます。実は)。

    それと、「虚構の世界の作りこみの鮮やかさ」も、五反田団特有の(あるいは独自の)表現(センス)を通じて見えていたと思うのです。ここも感じ方の違いなので、「私はそう感じた」としか言えないのですが(笑)。

    また、今回の舞台で「主人公は地理的にも、そして記憶・時間の流れの中でも迷子になり」ではなく、それはあくまでも主人公の中の出来事を、具体的な事象で表現したのではないかと思うのです。つまり、そういうところに迷ったのではなく、どこまでも続く迷いの中(自分の中)にいるということです。「迷い」というよりは、自分を取り巻く「閉塞感」の中にいるというところでしょうか。その「閉塞感」は自分が生み出したものであり、他者との関係でも生まれてきたものでもあるのです。舞台の中のような箱庭の中を、今回のお芝居のようにグルグル回っているだけ、という様子でしょう。

    と、まあ、結局うまく伝えることができなくてすみません(笑)。


    それと、話題は変わりますが、ちょっとだけ気になっているのは、

    >女性に寄り添ったものだと感じたのも、芝居が私の琴線に触れなかった理由

    と、いう感想の部分です。

    と言うことは、女性が主人公でその気持ちを丁寧に描いた作品は、琴線に触れないということなのでしょうか? もし、そうだとすれば、女性が主人公の作品は多いと思いますので、観劇がかなりもったいない感じになるでは?

    と言うよりは、結局、五反田団風のしゃべりがどうも合わなかった、ということに尽きるのではないでしょうかね。

    ちなみに、「家の内臓」のほうは、私からすると、他人行儀(笑)でややかしこまっていたように思えました。

    2010/11/15 06:06

    アキラさん、こんにちは。

    (少し話が脱線しますが、)12日(金)、F/Tシンポジウム「日本・現代・演劇を問い直す」を聴きにいきました。
    シンポジウム自体は、表題のようなテーマは与えられているものの、個々のパネラーが自身の立場から現代に有効なアートについて語る、といった趣のもので、特に話がまとまっていったりするものではありませんでした。
    パネラーが語る話の中には興味深いものが多数ありましたが、特に批評家・佐々木敦さんが現代のアーティストの表現の方向性について次のように語っていたのが特に印象に残りました。すなわち、ひとつが「ドキュメンタリズム」、つまり現代の社会や人の有り様をつぶさに見つめ、現代とは何かを舞台上に表現していく方向。もうひとつが言ってみれば「アンダーグラウンド」の追求、現状を打破して「変革」を企てる方向性を舞台上に描くこととのことです。佐々木さんによれば、F/Tのプログラム作品は上記の2つの方向性のいづれかに連なる色合いが強いとのことですが、この話を聞きながら自分は、「迷子になるわ」は前者、現代とは何かをそれこそカリカチュアを用いた形式で明瞭に描いたものなんだなあ、と(異論はあるかもしれないですが)思った次第です。アキラさんがおっしゃっているように、普遍的な現代の(特に都会に住む)人の、誰でも迷子になりうる可能性を孕むような生活観や人との関係性をよく描いているとは私も思います。
    一方シンポジウムで佐々木さんは、現代を記述する方向性の表現はともすれば現状追認に陥る可能性を含んでいるとおっしゃっています。私は芝居はどこかロックで、現状にアンチであってほしいと思っているので(笑)、不満だったんですね。主人公が「東京タワー」をよじ登る場面は現状に風穴を開けることを示唆した描写だったのかもしれませんが。
    恋愛に迷うことは確かに老若男女問わずあって普遍的といえばそうですが、うーん、例えば「ガールズトーク」という言葉がある通り、特に20代は男性より女性の方が生活において恋愛が占める割合は圧倒的に多いような気がします。人生に迷うことを描くときに恋愛の描写を軸に据えることは、やはり女性目線のポジションかなと思います。まあ、これは観る人の主観の問題でしょう。

    わたしのブログのURLは、
    → http://blog.livedoor.jp/theatergoer_review/
    です。アキラさんのお名前を出しているわけではありません。五反田団の俳優の演技について、あまりに的確なご説明だったので、引用させていただいています。

    長文、失礼いたしました。

    2010/11/14 00:00

    ohnnyさん

    >主人公が男性なら、恋愛相手との関係性が舞台の多数の時間を占めることはない気がします。

    それはどうですかね? 「恋愛」に迷うことは男性も女性も関係ないのではないでしょうか?
    特に「恋愛中」はそれだけが支配しいまうことはよくあることだと思います(個人的な感覚でしょうかね・笑)。

    「恋愛」も「人との付き合い方」のひとつですし、「人との距離」のひとつだと思います。それについては、現代の若者に限らず、普遍的な要素だと感じています。

    ですから、主人公が女性であっても男性であっても関係ないように思えるのです。

    私にとってはそれだけ「普遍的」な状態がそこにあったととらえたのでしょう。

    それと現代の演劇ですから、現代に作家が感じていることにフォーカスすることには異議はないように思えるのですが。
    そして、そのほうが近し関係にもなれるし、逆に反発を買うこともあり得るわけで、その作用が面白いと思うのです。

    ちになみに、プログにはどうアクセスすればよいのでしょうか?

    2010/11/12 07:36

    アキラさん、とても丁寧なお返事、どうもありがとうございます。
    「女性の感性」という表現はちょっと違ったかもしれません。主人公が女性で、登場する二人の彼氏が全く違うタイプで、彼らとの関係を描くことが芝居のかなりの部分を占めているあたりが、「迷子」の描き方が女性に寄り添ったものだと感じた理由です。同じ「迷子」を描くでも、主人公が男性なら、恋愛相手との関係性が舞台の多数の時間を占めることはない気がします。出来栄えは別にして、私の琴線に触れなかったのは、どうもその辺りが大きい気がします。
    役者の演技について、あえてカリカチュアしているというご指摘は、そういう側面もあるのかもしれないと思いました。「若い人たち」の会話の内容というよりも、その語り口や振る舞いですね。自分もそうなのですが、のっぺりというかべったりとした気だるいしゃべり方は、明らかに今の日本の閉塞感と無関係ではないと思っています。そういう皮膚感覚をあえてフォーカスするかどうか。これは意見の分かれるところなのではと思います。
    Corich!とは別に自分のブログでもレビューを書いていますが、アキラさんからいただいたコメントの内容に触れさせていただきました。

    2010/11/12 00:55

    ohnnyさん

    コメントありがとうございます。
    まだjohnnyさんは「観てきた」をお書きではないんですね。
    どうお感じになったのか知りたかったです。

    >おそらく、女性の感性にかなり寄り添った描写だからついていけなかったんですね。

    私は、そのようには感じませんでした。女性が主人公なので、表現できるところが広がったとは思いますが、「道に迷うこと」は性別、年齢を問わず、平等に起こりうるものではないかと思うからです。
    「迷ってる」と思った(自覚した)ときに「迷っている」状態になっているというか、そんなときに指針(ランドマーク)があれば、楽になるということではないかと。
    人によって、それは恋人だったり宗教だった、1本の映画や舞台や、1冊の書物だったりするわけですが。
    「迷うこと」に入り込みすぎると、広いところに、ぽか〜んと佇んで迷うというよりは、自分の中に落ち込んで迷ってしまうのではないかと思います。
    そうなると、そこから「すくい上げてほしい」と感じるのではないでしょうか。
    しかし、主人公は、それを待つのではなく、自から行ったという感じです。

    また、演技も日常に近いというよりは、本当はかなりカリカチュアされていると感じてます。もちろん、「若い人たち」の会話はどんなものかは、その実態は知りませんが(笑)、「あるある感」のようなものを残しつつの、「お芝居」だと思っています。
    ですから、「リアル」というより「面白い」と感じるのではないかと思います。

    舞台内容のとらえ方は人それぞれにあると思いますので、それぞれの見方で楽しめれば最高ですよね。
    五反田団のそんな全体的な雰囲気や感じが、私はとても好きなようです。

    2010/11/11 16:21

    アキラさん、こんにちは。
    「迷子になるわ」のレビュー、とても興味深く拝見させていただきました。
    少なくても現在のところWEB上ではとても評判の良い公演で、あまりネガティブな感想は見られないのですが、率直に言って私は楽しめませんでした。
    なぜだろうと考えていたのですが、アキラさんの各種のご指摘(東京タワーが「ランドマーク」の象徴であること、自分の「穴」に入り込んでしまうこと、など)を読み、なるほど、観劇中にそのように見て取ることができたら、きっと素晴らしい作品なんだろうなと自分なりに納得した次第です。
    おそらく、女性の感性にかなり寄り添った描写だからついていけなかったんですね。あと、全くの個人的好みですが、芝居のモチーフや脚本の設定、役者の演技が日常や自分自身にあまりに近いと何というか興ざめしてしまうんです。

    ぐだぐだ書いてしまいすいません、あまりに納得してしまったレビューでしたのでつい。

    2010/11/10 23:06

このページのQRコードです。

拡大