月の海 2025(東京) 公演情報 日穏-bion-「月の海 2025(東京)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    初演を観、映画版を観、地域劇団の上演を観ての今回。色々と思う所あり。良質な作品ではあるが、登場人物を3名に絞り込んだ映画版が自分には鋭く入って来た。芝居では登場しない主人公の母が登場し、献身的に介護を行なう娘(既に妙齢。芝居では幼馴染みとの恋愛の予兆があるが映画ではどうだったか..)との二人暮らしの家に空き巣が入り込み、姿形が亡くなった息子に似た彼を「海難で死亡と思われていた息子が記憶喪失になって帰って来た」と思い込み・・という所から結末までは同じ流れ。ただ人物がリアルに切り取られた映画では主人公が「本人ではないと判っていながら」喜ぶ母のため、そして自分の負担から少しでも逃れるために敢えて「勘違い」するという、生々しい人間心理を浮き上がらせていた。そこがツボでもあった。
    此度の舞台版では・・そこは明確にしていない、というか強調されていなかった。芝居ではご近所の八百屋夫婦、介護職であるその息子とその婚約者、ロートルの新人が同じ訪問介護事務所から出入り、幼なじみのケアマネも必要に応じて登場。そして弟の豊に成りすます事となった泥棒の相棒も「記憶喪失後の友人」として登場する。彼らのうち健在時の豊を知る者が、「だいぶ様子が変った」と言いながらも彼の帰還を無邪気に喜び、主人公とその母のために、という気遣いからでなく真っさらに豊の帰還を信じている風。
    ところが偽の豊(大木)の過去を知る者が実はおり(この部分でも一つのドラマが描かれる)、主人公を秘かに慕うケアマネが正義感を発揮「お前は誰だ!」と詰め寄り、主人公が「やめて」「この子はうちの豊だ」と主張するが、ついに大木自ら「俺は豊なんかじゃない、大木だ」と激白。「判っていたくせに今更なんだ」・・。この時の主人公は、「元々判っていた」のではなく「事実を突きつけられたが拒絶」と見える。
    ドラマ性においては、主人公は自分と母との関係の葛藤から、泥棒であった彼を利用し、救われたという関係が映画版では明白であったのが、芝居ではぼんやりしてしまった・・そこが自分の中では物足りない要素となった。
    母が死んだ後、線香を上げに訪ねて来た大木と主人公の二人が舞台正面、花火を見ながらのエンディングとなる。ここで母が一年前に申し込んでいたメッセージ(地域行事であるこの花火は打上げる前に地域ラジオ局からメッセージを流す=多分有料で=アトラクションがある)が流れ、娘への感謝と激励の文面が読まれ、娘が泣き崩れるのだが、私的には、死者との関係性の意味であったり価値というものは生者が解釈するものであり、読まれた文面を「どう解釈するか」さえも主人公に委ねられている。すなわち母からの「感謝」の文言がなかろうと、その思いを「想像」する事ができ、たとえその文言があろうと「別の解釈」も可能なのである。悪感情か好感情かの二分法で分けられない関係が二人の間にはあるはずなのであり、あのラジオで読まれた一件は、娘がそこに「母らしさ」を見出す事においてのみ、名付けるなら「ハッピーエンド」とする事が可能なのだろう、と考える。文言は美しくとも「母らしさ」から遠ざかっていれば、何か別の後味を残すのだろうし、文言が美しくなくたどたどしくとも、彼女が「いかにも母らしい」と感じ、娘へのある感情が見出せるなら、それは自ずから知れるものである、もっと言えば生前からどこかで感づいていても良いものだ。ドラマ的に言えばこれは「どんでん返し」にはなり得ない。
    むしろ強調されるのは、エンディングに立つ二人、娘と偽物の豊がその人生の「未来」へと押し出される様であろうと思う。その意味では、足枷となっていた「過去への拘泥」から解き放たれた、あるいは自ら解き放とうとする姿勢を、互いの中に見出した二人が、その背中を押した共通の人物(母)を思い、笑みを交わす・・恐らく今後二度と会う事もないだろう二人の間につかの間通う「普遍的な何か」が、観客の共有できる何か、にもなり得る。そんな「形」が見たかったな、と思う。ちょっと注文が多すぎかもだが・・。
    「妙齢」の女性の座る左隣からは後半啜り泣きと涙を拭う動きが目に耳に入って来た。実際に肉親の介護を経験し、身内故の苦悩を味わった人には説明不要なものがそこにあったのかも知れない。

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    2025/09/05 00:32

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