不可能の限りにおいて 公演情報 世田谷パブリックシアター「不可能の限りにおいて」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    生田みゆき演出による海外戯曲リーディング、という所で「観る」つもりでいたのがふと気づくと既に公演期日。泡を食って予定を組み、幸い観る事ができた(webからの購入を一度やり直したら次は完売。当日立見席で観た)。
    どこにその匂いを嗅いだかこの公演じっくりと取り組んだ舞台製作であるよりは、急ぎ上演に漕ぎ着けた感があり、その予感(?実際の所は分からないが)に違わぬ内容であった。即ち「人道支援」の仕事に取り組む人たちへのインタビュー(聞き取り)、今現在待ったなしの状況がパレスチナという土地で進行している事への焦燥が、その印象に繋がっただけ(単なる主観)かも知れないが・・私にはこの観劇体験は必要であった、と振り返っている。

    俳優はずらり14名、A、Bの2チームだが裏チームの者も「証言」以外の会話や小芝居の補佐として立ち回るので、全員の姿を見、声を聞く事ができる。
    一等最初、前説的な挨拶が終ると、インタビュー「される側」の会話が始まり、そこから最後まで彼らの証言だけで貫徹される(客観視する存在のナレーション等はない)。彼らは目の前にいる(だろう)俳優や関係者=演劇製作のためのインタビューに訪れた者たちに向かって語る。彼らを迎え入れる時の会話・・「私は演劇が苦手。退屈しか感じたことがない」「俳優さんとこんな体験ができるなんて考えもしなかった」「あなた、あなたに私を演じてほしいな。私は穏やかな人間。そして貴方は穏やかな顔をしているから」等々。そして徐に証言が始まり、彼ら「人道支援」を仕事にする者たちが一人ずつ立ち替わり喋ることとなる。

    まずはこの演出の見事さ、に触れるのであるが、彼らの証言はほぼ全て、彼らの「訪問先」で体験した事だ。彼らはその地域の事を「不可能」と言う。本テキスト中、演劇的飛躍のある唯一の約束事。自分が住む国は「可能」であり、「可能から不可能へ入る」「不可能の言葉は分からない」といった使い方をする。不可能=紛争地のことだ。
    台本を置くための譜面台を前に、最初は一列にずらり並んでのリレー・トークが収束すると、中央に一つ譜面台を残して少し後ろに椅子が横一列、俳優はそこに控え、一人ずつ中央に立って証言するフォーメイションとなる。
    言葉が耳から頭へとすうっと入って来る。一番手の話から、情景が眼前に浮かび上る。一つ目は彼らの組織の旗が爆撃後の静かな町の一角にはためいているのを見た職員は、そこにいる二人の男が路上に横たわる遺体を一体一体収まりの良い場所へ移動しているのを見る。仲間であれば自分らの職務が今最も医療を必要としている負傷した人達の元に駆けつけ、処置を施すこと・・にもかかわらず彼らは、手を掛けても甦る事のない遺体を黙って運んでいる。彼らに話しかけると、「手伝ってもらえますか」と言う。語り手はその後、自分の勘違いに気づく。彼らはそこに住む人々であり、彼らはその旗を「それがはためいている時だけは誰からも攻撃されない」お守りとして用いていたのだった。彼は自分たちの組織のシンボルが、その組織のことを何も知らない紛争地の人たちのものとなっている事に感銘を受けた事を語る。証言集の幕開きである。
    場内はその後、笑わせシーン以外は物音一つ立たず、張り詰めていた。
    様々なシチュエーションに遭遇した彼らの様々な証言が続く。
    フォーメーションは幾度となく変る。一人中央に立っての証言(後ろに横一列ずらり)はやがて、ランダムに中央へ向いた椅子の置き方となり、ある男が自分の失敗を語る。話者はしばしば女性の証言を男優が、男性の証言を女優が担う。
    ある女性は自分の血の輸血で救ったあるサッカー少年の、後日談を含めて語る。そこでは少年を表わす人形が登場し(人形が中央やや左のテーブルの上、話者は中央やや右寄りに立つ)、パペットシアターに。その少年のお陰で間一髪危機を逃れた後日談は木々の生い茂る中を車で進む様を、左右両の照明の前に木の枝(葉っぱ付き)を左右交互に「近づけて外す」とやってその影で道行きを表わす影絵の手法。
    やがて舞台上には何も無くなり、シチュエーションを複数で演じたり、照明だけでキャンプファイアを囲む様子に見せたり・・。その夜はギター弾き(メンバーの一人)も居て、話者が歌う「不可能」の人たちの不可能の言葉で綴られた歌声に聞き入る。彼らは他の者の証言に、常に耳を傾けている。その情景も観客の目が捉える所となる。
    逸話のバリエーションに見合うだけの趣向を凝らした演出に、リーディングである事も忘れるが、人の語りというものが様々な場や状況、気分によっても言葉のトーンが変って来ることを考えれば、ごく自然なあり方だ。
    台本を持ち、台本に目も落としているのに「読んでいる」ニュアンスが排除されている。語っている臨場感をキープし続ける所が俳優たちの力量を思わせる所であった。
    しかし何より、テキストが夏の昼に水を飲むように耳に、脳に入って来る。翻訳の藤井慎太郎は(先日観た)世田谷パブリック「みんな鳥になって」を始め過去上演したムワワド作品を翻訳してきた人だが、今改めて翻訳が持つ力というものを考え始めている。

    特記する事でもないが、終演後拍手は鳴り止まず、4コールまで続いたのだが、それが不自然でない舞台ではあった。娯楽とは何か、と考えずにおれない。

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    2025/08/12 00:46

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