湿ったインテリア 公演情報 ウンゲツィーファ「湿ったインテリア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    賞賛はグランプリ評において行ったので、ここでは『湿ったインテリア』について考える中で連想したものを

    ネタバレBOX

    本作において「母」は、ある種の役割を超えて、舞台空間に強く立ち現れる存在でした。それは、制度や役割としての「母」ではなく、「この子を抱く」と自ら名乗り出る実存としての母。まるで、ひとつの関係を取り戻すようにして、あるいは、それが一度でもあったことを手放さないようにして、母たちは赤ん坊(=スピーカー)に手を伸ばす。誰の子でもないようでいて、それでも「私の子」であると抱きしめようとする。

    また、その、赤ん坊=スピーカーの存在。
    その「赤ん坊」は、誰の子でもありうるし、誰の子でもない。しかしその前で、人は無意識に声をやさしくし、目線を下げ、抱えるようにして関係を持とうとする。スピーカーに宿るのは、生物的な子どもではなく、「ケアの対象」としての抽象的な存在であり、それゆえにこそ、ケアする主体を観客は観る。見立ては、その表現において作品そのものを象徴しうるのだと興味深く思いました。

    父たち(あるいは“家族”たち)は疑われ、混同され、すり替えられる。しかし母だけは、たとえ赤ん坊がスピーカーに過ぎないとしても、揺らがない。それはもしかすると、母性の絶対性などと言う前近代的なことでは無く、私たちの社会や感情が「ケアの起点」として母を記憶しているからかもしれない。
    『湿ったインテリア』は、その記憶に触れながら、それでもなお「誰かに応答することのかけがえなさ」を残していく。その呼びかけは、観客に届いていたように思います。

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    2025/06/27 21:58

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