悲円 -pi-yen- 公演情報 ぺぺぺの会「悲円 -pi-yen-」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    現代のワーニャ伯父さんはどこにいるのか

    ネタバレBOX

    『悲円 -pi-yen-』は、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を明示的な参照点としながら、地方の葡萄農家という設定とギャラリー空間の簡素なコンクリートの床が響き合い、まるで生活と経済の摩擦音を可視化するような空間で、新NISAをはじめとする現代の「投資」という制度に揺さぶられる共同体の姿をある種の滑稽さと共に提示していました。

    冒頭の詩の朗読に始まり、劇中に挟み込まれたユニゾンのダンスや身体表現、あるいは劇中劇の形式で仮想通貨の乱高下を眺める俳優の姿などには構造の実験性が感じられますし、チケット代が日経平均に連動するという制度設計まで含めて、演劇を「上演+制度」として捉える視点も非常に現代的で、制作的にも高く評価されるべき作品でした。

    ただその一方で、観ている最中からずっと感じていたのは、「なぜこの家族でなければならなかったのか」という疑問でした。戯曲の構成や俳優の身体には確かに緊張感があるのですが、そこに宿るべき不可逆性、あるいはこの家族が“見捨てずにいようとする”理由が、最後まで明確には掴めなかった。これはチェーホフ的な台詞の空転の中でこそ輝く“他者を放棄できない苦しさ”が、本作の構成では掴みきれなかったかもしれません。
    なぜなら、チェーホフが描いたのは例えば「劇をやめたあとの人間」であって、「人が人を見捨てずにいられるかどうかを試している戯曲」かもしれず、それは劇的な決別ではなく、沈黙や余白にこそ立ち上がります。本作において、もう少しこの人物たちに時間を、見捨てずに居合わせるだけの時間、があったならば、投資という主題と、人間存在の切実さをつなぐ線はもっと太くなったのではないかと感じました。
    もちろん、日本においてチェーホフを翻案するという行為自体、20世紀以降の演劇史の中で重要な意義を持ち続けてきましたし、特に“静けさ”の中で何を響かせるかを問い続けてきた作家であるからこそ、今も多くの劇団が向き合い続けています。そして現在の国際情勢においてロシア文学をどう捉えるかは避けて通れない問題でもありますが、だからこそチェーホフが遺した人間に対する無条件の眼差し、その演劇的な視点が今なお有効であることを改めて信じたくなるのです。

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    2025/06/21 22:46

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