湿ったインテリア 公演情報 ウンゲツィーファ「湿ったインテリア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    結婚を巡るある男女の三角関係と、育児を巡るある夫婦の日常。そして、結婚、出産、育児というテーマに終始せず、そのさらに上の世代である親と子の関係や、その生い立ちから受ける影響にも眼差しを向けた快作、いくつもの手触りの「生きづらさ」や他者と生きる「ままならなさ」が濃密に紡がれた演劇であった。


    ネタバレBOX

    出産を控えるひと組のカップルジュウタ(黒澤多生)とチア(豊島晴香)が不動産屋の男(藤家矢麻刀)に新居の内見を案内されるところから物語は始まる。そこから結婚・家族生活が描かれると思いきや、早々に不動産屋の男がチアの元恋人・タクであったことが明かされる。さらにはジュウタの急死を機に、タクがチアとともに暮らし、ジュウタとの間に生まれたソラの父親になることを決意し、3人の新生活の様子が描かれていく。そこに訪れるのが、両家の母親。両家と言ってもチアとタクの母ではなく、タクの母・タナコ(根本江理)とジュウタの母・カキエ(松田弘子)であるからして、その鉢合わせを巡って状況はますます混沌を極めていく。ジュウタの死を受け入れられず、その喪失によってソラの存在が拠り所となっているカキエはやがて、ソラをジュウタとしてあやすようになる。そうこうしているうちにソラの体に亡きジュウタの魂が転移し、言葉を発し始める。一方で、タナコもまた「ソラは本当はタクとの間にできた子どもなのではないか」という想像に駆られる。さらにはチアとその親との不和も詳らかになり始め、3人の男女の三角関係から、それぞれが生い立ちによって背負った傷や葛藤、それがその後の人生に与えた影響が浮かび上がってくる…。

    来る日も来る日も続く夜泣きからの疲弊、「子どもを宿し、産んだ」という実感を経て親になる母と、そうではない状況で親になる父との埋まらぬ価値観…。そういった、出産や育児という出来事がもたらす精神のバグや他者との不和や軋轢が(子どもを生み、育てている当事者としては)思わず「あるある」、「わかる」と言ってしまいそうな日常の一コマとして、リアリティを以て舞台上で展開される。さりげなくも綿密に練られたその会話と演出に作家・本橋龍の確かな技量を改めて見る思いであった。中でもポータブルスピーカーを赤子に見立てる演出は、その斬新さもさることながら、「家電に泣き声が宿る」といった点でまさに「湿ったインテリア」というタイトルを具現化していた点にも感銘を覚えた。(余談だが、私自身もかつて何をしても泣き止まない赤子の泣き声に狼狽え、スピーカーのようにその音が調整できたらと思った経験があった)

    しかしながら、私が本作で最も素晴らしいと感じたのは、そういった「子どもを持ち、育てることの大変さ」がこの物語と演劇の核心ではなかった点である。
    複雑に絡み合う人間関係の中でありありと浮かび上がってきたのは、「人をどう育てるのか」ではなく、「人にどう育てられたか」であったように私は思う。つまり、ジュウタとチアとタクの3人の親やその子育てをもに焦点を当てることで、本作は観客、ひいては社会に対してよりひらけたテーマを問おうとしていた気がしてならない。中でも印象的だったのが、カキエの愛情を存分に受け、手づくりの洋服を着せられて育ったジュウタが「愛されること、大切にされることの怖さ」を語るシーンである。親が育児に没頭できないことの罪深さだけでなく、親が育児に過度に没頭し、その愛と期待の重さによって子をがんじがらめにしてしまう様子には、一人の親として思わず背中が冷える思いであった。ソラを自分の孫であると信じたい二人の祖母の姿には、それ以前にタクやジュウタをどう見つめてきたか、どう見つめてこなかったかという母から子への関わり方や育児の履歴が忍ばされていたように思うのだ。家族や夫婦といったコミュニティにとどまらず、登場人物一人ひとりが背負うものへも視野を広げることで、「人間がいかに複雑な生き物であるか」という想像が観客へと手渡されていくようでもあり、シーンが変わるたびに、そこに生きるあらゆる人の背景に想いを馳せるような観劇体験だった。

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    2025/06/15 01:37

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