実演鑑賞
満足度★★★★★
あまりに鮮烈な身体と言葉の端々を間に受けて、私は今どうにかもう一度本作を観劇できないものか考えあぐねている。凄まじく受け取るものが多かった。だからこそ、拙い私の一度きりの感度では正直追いつけないところがあった。
そのままにして余韻に任せることが観劇のスタンダードな在り方かもしれない。だけど、私はあの身体、言葉、あの瞬間にもう一度会わなくてはならない気がしている。焦燥に近い。そのままにはしておけない。
この作品のことをもっと分かりたい。あの身体を、言葉をもっと分かりたい。見つめたい。
"思い出"が一人で持ちきれないそのことと同じ様に、一度では持ち帰れないものがあった。
"思い出"が決してなぞれないのと同じ様に、二度観たところで最深部まで辿り着けるかなんてわからない。
だけど、それでも、まだ"思い出でない私"は今それを求めている。
光の眩しさが翻って残酷さになることをまざまざと握らせられながら、また、影の寂しさにやがて光のきらめきを思い知らされるように、生と死や動と静が、消えゆき生まれゆくあらゆるものが目の前で縁取られ、そして呆気なく溶けていった。その質量に、重量に私の心身は一度で耐えうることができなかった。
そういうことなのだろうか。わからない。わからないけど、本当はそれが全てなのかもしれない。
記憶する限り、辺りが真っ暗闇に包まれる暗転や、そこから分かりやすく晴れるような明転はこの舞台にはなかった。なのに、ここまで光が差し、翳り、失われていく瞬間が私には刻まれている。
そのことが私の中には何より深く残った。その残像がいつまでもくすぶって、あの光と闇の狭間から発せられた声が何度も私の中をリフレインする。そうだ、身体や言葉は元より、「声」が鮮烈な舞台であった。
一人の俳優から放たれる、温度も湿度も強度も違ういくつもの声、声、声。
ある時は身体をうんと伸ばしながら声をぎゅっとひそめ、またある時は身体を縮めながら声をひろげてゆく。
4名の俳優、そして2人の演出家の操る身体の所業の大きさに感嘆する他なかった。その波及をもっと見つめ、掬い上げられるだけの余裕が欲しかった。
人間のことも、世界のことも、まだ知った気ではいられない。
この作品はそんなことを私に強く伝えた。
私はこの作品をもう一度観ることができるだろうか。あの光の外から、その中の眩しいまでの残酷と切実に再び立ち向かうことができるだろうか。俳優も凄まじくエネルギーを要するが、観客もまたそれを要する。死に向かって生きるということは等しく凄まじい。そういうことをやり抜く作品なのだと思った。抜きん出た俳優の技と業に拍手をまだ送り足りない。
追記。
近親に耳が聞こえづらい人がいて、とくにこの1年一緒に過ごすことが多く色々なことを知った。音楽がとても好きな人だからもう少し先になりそうだけど、一緒に舞台を観る日もきっとくると思う。田中結夏さんの舞台手話通訳の回に観劇できてよかった。