渡り鳥の信号待ち 公演情報 世田谷シルク「渡り鳥の信号待ち」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    牛と乳と鳥
    意図はいろいろわかるのだ。演出家はこういうことがやりたいんだろうなということは。そしてそれにはものすごく共感できる。

    が...以下、おもいっきり違和感をかきます。そのあとでネタバレBoxの中ではよかったところを褒めます。誰かにけなされたからって観にいかないようなお客さんはたぶん行かなくていい。そんな尖ったことをやろうとしてる集団だと思うので。(コメントタイトルはネタバレBox内の分についてのタイトルです。)

    ...しかしあまりにも音響がずさんすぎる。空間は音をつくる。演者の声とかぶる楽曲を流すことを前提に、そして演者の声を掻き消すことが主眼ではないはずの演出で、なぜ演者と観客の間にスピーカをおくのだろうか?もちろんそこにおいてそれを感じさせないエフェクトを用意することはできるがそのような配慮はない。
    それだけでなく音楽がこれだけ流れ続ける作品で、なおかつ、抽象美術というかほぼ空の小屋そのまんまであれば、音の響き方でいくらでも場面の差、空間の差をつくれる。それを全くしていない。
    さらに音楽のかけ方としてあまりに調整がずさん。ライブで残響と各音域帯のバランスの調整までしろとは言わないが(ほんとはするべき演出プランに思えるが)コンクリートの壁かつ地下室という劇場の特性にあったEQをほどこしていないため、ダンスに対して拍がものすごくぼやけているし、会話の場面に戻っても中音域が無駄に響く。いい選曲をしていると思うし、終盤でかかっていたUnderworldの二つの楽曲のmixはこの作品のために施したremixならばとてもうまい編集だと思うが、それが空間に落ちていない。
    その結果として、演者の声も含めた音の流れに緩急がない、リズムがない。ものすごく平板な一定の音圧を観客に与え続けるなら、観客の耳と肌はだんだん麻痺してきて終盤でどんなに大きな刺激を与えられようと感受しがたい。

    演者の身体について。たぶん演出家が人間の身体の構造に詳しくない。軸をどうつくるのか、重心を落とす/浮くに関わる制御がものすごく甘い。なのでふだん小劇場の舞台で活躍する演者たちは無駄に腰が落ちているし、おそらく古典バレエをやっていたことのある演者は無駄に胸の位置が高いままで安定している。それがいい場面もあるが全体を通すと全員両方できるべき作品にみえる。みたい絵をみたいといってなげるのならば演出家ではなくて観客である。これだけ身体表現の多い作品なのに残念でしかたがない。

    ネタバレBOX

    宮沢賢治の原作から、ここまで牛乳をフィーチャーした翻案もいままでかつてなかったかもしれない。生き別れの(?と言えばいいのかな)母と娘の幾度もすれ違いながらの、クライマックスでのほぼ唯一の交流が、父のための牛乳を買いそびれた娘に母が持っていた瓶詰めの牛乳を渡す、そしてその父への渡し方を教え諭す、という場面にもっていくまでの牛乳や乳牛に関わる断片の配置が実にうまい。母と娘は互いに母と娘であることを知らないままでそのやりとりをおこなうが、背景にいる父の存在も含めてものすごくリアルな母娘像をその瞬間、突然にして舞台に提示し、それまでの全てが伏線だったと気づかされる。

    鳥をモチーフとした動きが、踊りと各所での演者の仕草にうまくちりばめられていたのが美しい。おそらくはカーテンコールの演者の整列が静止したままに渡り鳥の姿にみえればよいのだろうと思った。冒頭、演者紹介の字幕のでるなかで主人公の女が、舞台が転換していくのに合わせずに、客入れ時から円状に並んだ椅子の外周を回る姿の浮遊観。それと終幕での静止の絵、どちらもが宙を舞う何かであり、それが舞台上では描かれない鍾乳洞の湖の中に落ちていったであろう現実の死に様と対比されて、銀河鉄道の時空を描写するのに成功していたと思う。原作者がどこまで中心においていたかとは別に、日本では古来、銀河は、川である以上に生と死を結ぶカササギたちの群である。

    野村 美樹はもっと注目されてよい俳優だと思う。出演機会が少ないからしょうがないが。いくつかの制作としての姿で予測していた以上のものが観れた。

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    2010/09/03 05:17

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