白き山 公演情報 劇団チョコレートケーキ「白き山」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「あかあかと一本の道とほりたり たまきはる我が命なりけり」
    アララギ派(正岡子規の信奉者)の師である伊藤佐千夫が脳溢血で早逝。「師匠の照らした遠く続くこの一本道を魂の極わるまで歩き続けなくてはならない。」との覚悟の歌。
    正岡子規の掲げた写実(写生)主義とは、絵画の方法論と同じく現実をありのままに写すこと。
    更に斎藤茂吉はそれを深め、『実相観入』という造語を生み出した。自然と自分とを同一化し、対象に観察者である自己の存在をぶつけて生命そのものを写すこと。

    1945年9月、敗戦してまだ一ヶ月、混乱の世相。郷里の山形県金瓶(かなかめ)村で妹の嫁ぎ先の離れに疎開していた斎藤茂吉(緒方晋氏)、63歳。精神科医で歌人。戦時中に「戦争詠み(時局詠)」と呼ばれる戦意高揚の短歌を詠んだことで、敗戦後「戦犯歌人」と罵られることに。近所の農婦(柿丸美智恵さん)が賄い婦として食事の世話をしてくれている。様子を見に東京から立ち寄った次男(西尾友樹氏)は手紙で兄である長男(浅井伸治氏)と斎藤茂吉の弟子である山口茂吉(岡本篤氏)を呼び寄せることに。

    MVPは柿丸美智恵さん。実質、彼女が主人公なんだろう。凄腕。
    西尾友樹氏は非常にコミカルな役を怪演。異常にどったんばったん地面に転がり、全身を使って笑いを取る。肘上に痣が見えた。かなり身体を酷使した役作り。煙草やマッチが散らばり、土塊が散乱。
    緒方晋氏は大御所役者の風格。体調不良で降板した村井國夫氏の代役なのだがそれを全く感じさせない。彼以外考えられない。

    戦後の松竹映画の雰囲気。淡々とした描写を重ねて内面を風景で補完させる。
    観れるのであれば必ず観ておくべき作品。
    是非観に行って頂きたい。

    ネタバレBOX

    岡本篤氏がやたら咳き込むので、体調が悪い中の出演か?と思って観ていたらそういう役だった。
    西尾友樹氏の演じた次男は後に作家として大成功する。精神科医の傍ら北杜夫のペンネームで作家となり、旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ』シリーズはベストセラーに。芥川賞も獲り順風満帆だったが、躁鬱病を発症し狂乱の株取引で自己破産。周囲から借金を繰り返し準禁治産者宣告を受けることに。
    浅井伸治氏の演じた長男・斎藤茂太も精神科医、随筆家として名を残す。日本旅行作家協会を設立する程の旅行好き。

    物語はただの農婦キャラだった柿丸美智恵さんが実は短歌好きで正岡子規や斎藤茂吉の『赤光』を発売当時から買い求めていたことを告げてから動き出す。言葉に出来なかった自分の気持ちを作家が代弁して形にしてくれたように思えた嬉しさ。名もなき自分の誰にも伝えることの出来ない想いが作品として刻印されること、その瞬間を封じ込めた一冊の本。
    山形県と宮城県の境として屹立する蔵王連峰。その峻厳なるフォルムは古来より人を本能的に畏怖させる。戦争に息子達を取られてからというもの、蔵王を眺めれば恐怖と苦しみ、痛々しい悲痛な想いしか感じられなかった。息子を全て失って、今蔵王を見遣ると、何故だか「頑張れ!頑張れ!」との励ましの声が聴こえてくる。何故だろうか?

    その話をじっと聞いていた斎藤茂吉(緒方晋氏)ははっと気付く。自分が歌を詠めなくなったのは自分自身の心の問題であった。自分が『実相観入』によこしまな意識を入れたせいだ。間違っていた。自然は常に「生きろ」と告げる。「死にに行け」なんて言う筈がない。その声が聴こえなくなったのは自分の心の問題だ。彼はまた自分の中に歌を見付け出すラスト。

    ただ自分が物足りなさを感じたのは脚本の密度なのかも知れない。歌人の再生物語としては弱い。

    太平洋戦争開戦は日本国民の大多数が支持していた。米英の経済封鎖に我慢に我慢を重ねて来た日本が到頭怒りの鉄拳を振るう時。国民は往来で口々に万歳を叫び、士気を鼓舞した。自国が戦地でなければ戦争はオリンピックのようなもの。国民的歌人の斎藤茂吉が戦争詠みをするのは至極当然の事。誰も日本が戦争に大敗し無条件降伏を呑んで占領されるなんて想像していなかった。
    1945年9月18日、朝日新聞に載った鳩山一郎の談話が問題になり、GHQは発行停止処分にした。原爆投下や市街地への無差別空襲は国際法違反であるとの内容。この日から米軍批判は絶対的タブーとなり、言論統制が始まる。GHQは「ウォー・ギルト・プログラム」という計画を立て、「戦争の有罪性」を日本国民に知らしめていく。全国紙に連載された「太平洋戦争史」とラジオ・ドキュメンタリー番組「真相はこうだ」の放送。続く戦犯認定と東京裁判、左翼活動家達の釈放。日本人の価値観はたちまち引っくり返り、自分達は軍部の恐怖政治に支配されていた無辜の民、被害者であったことにした。

    実際の斎藤茂吉は「戦争詠み」に全く恥じてなどいなかった。国民の思いを代表して詠むことの何が悪いのか?逆に敗戦で価値観が簡単に引っくり返ることの方が恥ずべきこと。戦争を起こしたのは無辜の民で、自分達自身であることに向き合うべき。自分を断罪せず、他人のせいにしていてはこれからも何も変わらない。

    ※ここから余談、黒澤明の『醜聞〈スキャンダル〉』の冒頭、画家の三船敏郎が山を描いている。地元民がその様子を眺めているが、現実と絵の山とは全くの別物。そのことを訊ねると「目だけではなく自分の心全体を使ってこの山を受け止めているんだ。」的な言葉を返す。(うろ覚えなので全然違ったかも知れない)。元々画家志望だった黒澤明、こんなふうに考えているんだなあと参考になった。
    そして晩年の『夢』の第5話『鴉』。美術館でゴッホの絵を眺めている黒澤明。そのうち絵の中に入り込んでその景色の中を歩き回っている。随分と彷徨うと作者であるゴッホを見付ける。黒澤明にとって絵を観るという行為は、魂のレヴェルでそれを描いた作家と会って対話することであったのだ。当時驚いた記憶がある。

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    2024/06/11 16:59

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