天の秤 公演情報 風雷紡「天の秤」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    少ない人数でよど号ハイジャック事件(1970年3月31日)をよく描いた。脚本の工夫には感心。自分は山村新治郎が次女に刺殺された事件(1992年)や田宮高麿の怪死(1995年)など後追いで事件に興味を持った口。当時『噂の真相』や『創』なんかを毎月買っていた。
    未だによく判らないのが共産主義の魅力。戦前の太宰治的キリスト教文脈の解釈としての憧れならば理解出来るのだが。ただ“革命”に参加したくて、それを肯定する理由付けの為だっただけなんじゃないかと。大義名分による暴力衝動の正当化。

    テーマは「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」。
    ギリシャ神話に登場する女神テミス(=ローマ神話のユースティティア)像。目隠しをして左手に秤、右手に剣を持つ。秤は善悪を量る「正義」を象徴し、剣は裁く「力」を象徴、目隠しは「法の下の平等」を。1872年、ドイツの法学者ルドルフ・フォン・イェーリングの『権利のための闘争』から。その元となったのはフランスの哲学者ブレーズ・パスカルの死後、1670年に発刊された遺稿集『パンセ』の一節、「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である」。

    機長役、祥野獣一氏が物語の重心となる。
    山村新治郎役、山村鉄平氏が事件を追想する額縁。
    ハイジャック犯、田宮高麿役は高橋亮二氏。乗客達に「(退屈しのぎの為、)希望者には自分達が持ち込んだ本を貸し出す」と告げて書名を読み上げる。このシーンが一番観客が沸いた。

    乗客の生命、安全を最優先にすることが日本航空乗務員の“正義”。
    “革命”の為にどんな障害があろうとも計画を遂行することがハイジャック犯の“正義”。
    今、最優先すべきものは何なのか?その判断の根幹、“核”になるものとは果たして何なのか?

    ネタバレBOX

    この事件を起こした共産主義者同盟赤軍派の9人はリーダーの田宮高麿が最年長27歳、最年少の柴田泰弘に至っては16歳の高1。しかも犯行に使った日本刀、拳銃、爆弾など全て玩具でしかなかった。目的は北朝鮮をオルグ(勧誘によって仲間にすること)して“赤軍化”すること。勿論、朝鮮語も英語もできない。こんな無計画な度胸だけの若者達が国家相手に大立ち回りを演じ、見事国交のない北朝鮮に入国したことは世間に衝撃を与える。当時は国家権力は“悪”の象徴だった為、「あいつら凄えことやりやがったな、俺達だって出来る筈、負けてらんねえ。」の気分。ある種、痛快な英雄でもあったのだ。(無論、革命ごっこに夢中な愚かな連中と白眼視もされていたが)。

    この人質を取って荒唐無稽な要求を国家に呑ませるというアイディアは、ゴジが撮った『太陽を盗んだ男』という映画になる。
    冴えない中学校の理科の教師が、自宅で原爆を作る。証拠を携えて日本政府を脅迫。要求は「プロ野球中継を最後まで放送しろ。」「ローリング・ストーンズの日本武道館公演を開催しろ。」(当時、ストーンズは前科が問題となって入国審査が下りず)。実は彼にはそれぐらいしか望みはなかったのだ。

    この事件の裏の主人公は乗客の中にいた米国人のダニエル・マクドナルド神父。彼はどうもCIAのエージェントだったらしく、北朝鮮で尋問を受けることを米国は危惧。日本と韓国に、北朝鮮には絶対に行かせないよう要請。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領はKCIAに命じ、よど号を金浦(きんぽ)空港に着陸させた。そして3回、別々の米国人の3人が神父の身代りになりたいと空港に申し出てくる。更に管制塔から神父との交信を求められる。山村新治郎が身代わりになることで乗客は解放され、飛騨号で帰国することに。だが神父の姿は消えてしまい、結局日本に帰ることはなかった。この神父の存在がこの事件をここまで込み入ったものにしている。

    一番ぐっと来たのは山村新治郎が母親に電話して「母ちゃん、最後にもう一度、直義(彼の幼名)と呼んでくれないか」と頼むところ。国交のない北朝鮮に行けばどうなることか誰にも分からない状況。死を覚悟した男の名シーン。

    後年、山村新治郎は24歳の次女により、寝室で出刃包丁で滅多刺しにされて死んだ。精神疾患を患っていた次女は「心神喪失により責任能力なし」で無罪に。その4年後、飛び降り自殺。

    今作の物足りなさはよど号グループ、田宮高麿に全く感情移入していないこと。ただの馬鹿ガキの起こした事件にしてしまっている。これではドラマにならない。“正義”を後生大事に崇めているだけでは何も変わらない。間違った何かを変えるのはいつも“暴力”だ。行動なくして何も動きはしない。そんな異なる“正義”の対立が観たかった。その為には全く別の視点が必須。
    前田日明が批判としてよく使うのは、歴史の「後出しじゃんけん」について。結果を知っている現在と、何も結果が未確定の当時とでは評価が違って当然。いつだって闇の中を無我夢中の手探りでどうにか進んできたのが人間の歴史。現在から過去を安易に断罪することの愚かさ、無意味さ。未来から見れば今の世界の“正義”など全くの無意味、ナンセンスなのかも知れない。

    ちなみに田宮高麿の子分だったのが後の連合赤軍トップ・森恒夫。田村は森を腰抜けだと馬鹿にしていた。

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    2024/04/03 14:44

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