マギーの博物館 公演情報 劇団俳小「マギーの博物館」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    公演は、タイトルにある「博物館」としたマギーの家、そこで力強く生きた人々の「証」を紹介もしくは回想した力作。同時に、人によって捉える観点が恋愛劇であり社会劇といった違い、そんな幅広い受け止め方が出来る作品でもある。
    当日パンフに翻訳者の吉原豊司氏が「時代背景は1940年代後半、場所はカナダの東海岸にある炭鉱町グレースベイ。今の日本とは地理的にも時間的にも遠いところの話」と記しているが、何となく現代的なような気もする。

    人間はどんな劣悪な環境下でも生きる、そのために無くしてはならないのがプライドである。生きる原動力にもなっているプライドの激しいぶつかり合い、その中に さり気なくルーツの大切さも描く。それがバグパイプの調べであり ケルト語で書かれた祖母の日記帳である。言葉を発しなくなった祖父の意思表示は、<英語>で祖母の日記帳へ殴り書きをする。何もかも上書きし無かったことにする、その虚しい行為に自分自身憤っているかのような態度=後ろ姿。

    脚本(翻訳)の力は勿論、視覚的に観せる舞台美術、そしてマギーの主観的な追憶であり客観的に俯瞰するような語り、その複眼的な演出が秀逸。それによって炭鉱労働者の劣悪な労働条件・環境、経済的貧困、労働組合による戦いなど、悲惨極まりない出来事を一時の感情的な事としてではなく、事実として伝える。この掘っ立て小屋は、今では 勝手に思っている「博物館」であり、冒頭は 、陳列している「弁当箱・ヘルメット・ヘッドランプ・・・」と説明し、ラストシーンは「覚えていてもらうってのは大事な事」というメッセージで結ぶ。劇中ナレーション風になるのは、回想場面から抜け出し、現在<今>の心境で語るためであろう。

    また場面転換をしても、いつも母の床拭きから始まる。いつまで経っても状況は変わらない、そこから一歩も進めていない様子が一目瞭然。その一家の暮らしを支えているのがマギーの弟、炭鉱労働者である。使用者対労働者という典型的な資本主義の構図をあてはめた物語へ展開していく。

    気になったのが配役である。マギーに兄がいたが、彼が16歳の時に炭鉱の事故で亡くなった。その子は今8歳…と言うことはマギーやその弟は20歳代前半だろうか?<自分の聞き違い又は勘違いだろうか>
    (上演時間2時間15分 途中休憩15分) 

    ネタバレBOX

    舞台美術はマギー一家が暮らした家、今では更に廃屋同然な状態であるが、壊さず当時の状況を伝えるための”博物館”として遺している。舞台<家屋>と客席の間には、海が見える小高い丘、そこは お花畑のような美しさ。家屋内は中央にテーブルと椅子、上手奥からベット、中央奥は窓ガラスと玄関ドア、下手はトタン壁、炊事場が見える。そして陳列台には弁当箱、ヘルメット、ヘッドランプ等が置かれている。天井は平板が何枚か吊るされているが隙間だらけ。全体的に煤け、炭鉱労働者の貧しい生活ぶりを端的に表している。

    マギー(小池のぞみサン)の回想、それは後に夫になるニール・カリー(加賀谷崇文サン)との出会いから始まる。偶然 2人ともスコットランドからの移民で、何となく意気投合するような。この移民という設定が肝で、今ではその文化、例えば文字や言葉、音楽が忘れ去られている。郷愁よりも今の現実ーー生活していくこと、もっと言えば生きていくことが最優先される。移民の悲哀は後ろ姿だけで声を発しない おじいちゃん(大久保たかひろサン)に担わせている。この件が気になるのは、外国(翻訳劇)を通して、アイヌや琉球、世界に目を向ければウクライナといった地に思いを巡らすから。

    ニールはマギーの家に入り込むが、働かず復員兵に支給される生活保護も受給しない。日の当たる場所、農業労働に理想を見ているが、この一家では明日の生活もままならない。一家の生活を支えているのがマギーの弟・イーアン(大河原直太サン)<炭鉱労働者>である。亡き父・兄と同様 暗い炭鉱に潜って低賃金を稼ぐような生活。何とか労働環境・条件の改善を目指すため精力的に労働組合活動を行う。物語は、登場し<見え>ない資本家との対決姿勢を通して自己実現<信念に自己陶酔>しているイーアン、プライドだけは高いニールとの激論によって資本主義の弊害を浮き彫りにしていく。そして社会は一層不景気になり炭鉱労働者に過酷な試練<争議>を負わせるが…。

    この公演だけではなく、俳小の最近作に言えることだが、小市民的ながら強か<いわゆる反骨的>な生き方をする人々を描いているような気がする。本作でも「洟ッ垂れ」と綽名で呼ばれた小柄なマギーが、自分の生き様を語り、力強く生きて行こうとする姿を観(魅)せる。掘っ立て小屋を遺し後世に伝えるーー別意味だが、死者はその人を忘れた時に、本当の意味での”死”になると聞く。

    弱きモノの視点として、1つは 母キャサリン(荒井晃恵サン)が、場面転換ごとに床拭きをしている。雨が降っている時に、雨漏りがひどいが、屋根があるだけましかと自嘲気味。文句言い=虐げられながらも黙々と拭(働)く姿。そこに現状からの脱却(きれいにする)を見る。
    もう1つが、湾に鯨が打ち上げられイーアンとニールが助けにいく場面。イーアン曰く 一生懸命に生きようとする、そのためには戦わなければならない。それを助けるのは当たり前だ。勿論 炭鉱夫である我が身に置き換えての言葉である。そこに労働者としての矜持を見る。
    次回公演も楽しみにしております。

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    2023/03/11 06:06

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  • みなみ 様

    コメントありがとうございます。
    「観劇力、まだまだです」など、ご謙遜を。
    人それぞれの感性で観ており、どこに関心を持つかでしょう。

    きれい好きかどうかは分かりませんが、確か「雨漏りがひどくて、でも天井があるだけましか」といった母の嘆きの台詞。それだけ隙間のある家、さらに炭鉱労働で汚れた服や靴、そこに荒廃した暮らしが垣間見えます。そんな暮らしから脱却(きれいに)したいという表れにも思えます。その意味では一理ある観方のように思えます。

    あと、年齢<設定>は疑問が残りました。なにしろ台詞で言われると印象が強くなります。

    2023/03/13 20:53

    マギーやその弟は20歳代前半だろうか?
    私もそれが気になっていました。マギーはともかく弟が・・・。苦労しているとはいえ老けすぎていないか?とか思ってしまいました。
    いつも母の床拭きから始まる・・・・・
    確かに印象的でしたが、私はきれい好きなお母さんなんだなくらいにしか思っていませんでした。「いつまで経っても状況は変わらない」ということを表していたんですね。
    観劇力、まだまだです。

    2023/03/13 11:55

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