映像鑑賞
満足度★★★★
映像にて鑑賞。シアターXで上演というとつい1ランク上に注目し、劇場観劇は叶わなかったから配信を観た。大昔の新宿梁山泊以来久しく見なかった近童弐吉を劇団印象「瘋癲老人日記」で目にして今回二度目になるが、自分が目にしていなかっただけで役者稼業は続けていたようで(結構ニアミスで見逃していた舞台も..)。本作では近童氏のみ中原博史(現代及び中学時代)一人を演じ、他大勢は役及びコロス、またはコロスのみ(パンフにはカラスと書いてある)。主要な役として中学時代の父、母、祖母、妹、ポチ、同級生の島田、クラスのマドンナ永瀬智子、彼をライバル視する男子や漫画家志望の浜田。他のエピソードとして父が見舞いに行っていた幼馴染みの女性、父の戦友で母の許婚であった青年など。現代には妻と子ども二人がいるが、冒頭の紹介以降ラストまで登場しない。コロスたちはクラスメートを演じたり、博史の代わりを演じたりする。その時弐吉は自分を客観視する立ち位置にいる。
谷口ジローと言えば作関川夏央/絵谷口の「「坊ちゃん」の時代」が思い出されるが、今作は谷口氏が自らの故郷を舞台に時間を遡る物語。ドキュメントなタッチにほんのりフィクショナルな風合い。導入は山田太一の「異人たちとの夏」のようなリアルな感覚を引き摺りながら事態を受け入れて行く過程が良い。14歳の自分に48歳の自分が遠慮なく混じり込んで14歳を満喫しているのも新鮮で、48歳の頭脳が若い身体を動かすのだから当然だが本人の自覚なくして成績良く英語ペラペラ、スポーツも優秀、達観した言葉を吐いたりするので、本当の14歳時代には言葉すら交わさなかった永瀬さんと親しくなり、恋心を打ち明けられてあたふたしたり。過去の時間のそうした「変化」を認識する中で、彼はこの旅の無意識レベルでのきっかけであった「母」の人生、その苦労を決定付けた「父」の失踪に思い至り、父が失踪した日が近づくにつれ、父の失踪を防ぐ事が自分の旅の目的だと思い定める。そしてついにその日を迎える。全てにおいて塩梅よく仕上がったストーリーで、成熟社会となった日本の「現代」の生の課題を掬いとる着地になっている。
ただ、原作コミックが発表されたのが1998年、失われた二十数年の起点となり派遣労働の規制緩和、自殺率の上昇、日本型新自由主義によって今思えば組織防衛のために成長の契機を摘みにかかった時期で、政治を含めた社会の先行きが当てを失って彷徨い始めた頃である。今、見えてきた日本の構造的な課題は、「諦め」の深化との相殺で変化の契機になっていないが、「見える」段階に入って来たとすれば、この作品のトーンは「見えない」自分の現在地を過去に遡り、父の人生を見つめる事を通して発見しようとするファンタジーである。社会云々と書いたが最も生々しく己れの生のありかを定める父という存在(女性にとっては母、あるいはそれぞれ逆の場合、他の存在もあるかもしれない)に、気づかせる。
2010年ベルギー、仏独の製作で映画化。谷口ジロー作品は仏で評価されているらしく、それが今回の共同制作に繋がったようである。舞台処理は欧州のクリエイターらしく機能的で生演奏の音楽、効果、奏者も芝居に加わり、コロスの細やかな動き、ちょっとした憎い演出が全編に効いている。例えば博史が公園のベンチで寝ている所へクラスの永瀬智子がやって来て二人して話し込む、という場面は空からの視点で観客は見る事になるが、見事に錯覚させる。
弐吉の物語を総員で作り上げる「形」の中に演劇に対する演出家の思想を読み取るのは気が早いか。座高円寺の企画に参加しているイタリア人演出(これまで「ピノキオ」他三四作を演出)にも近い印象を持った。