人形演劇”銀河鉄道の夜” 公演情報 せんがわ劇場「人形演劇”銀河鉄道の夜”」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    『銀河鉄道の夜』の夢
    本作は『銀河鉄道の夜』を熟知していることを前提に作られた芝居だそうで、原作を知らない人には物語の流れがわかりにくいかもしれない。ということを書いた注意書きのような紙がパンフレットに挟まっていたので、それはそれで親切だなと思いました。私も決して『銀河鉄道の夜』について熟知しているとは言えず、ストーリーを思い出しつつ、「あてはめながら観る」という感じでした。
    劇化されたものを数多く観ている人にとっては、原作をなぞるかたちの上演では新鮮味がないと判断されたのでしょうか。
    ひとことで感想を表現すれば、私は『銀河鉄道の夜』の内容が出てきた“夢”を見ているような気分で、観劇前に想像していた内容とはだいぶ違ったものでした。
    『銀河鉄道の夜』の世界を人形演劇としていかに表現するかということよりも、人形の遣い手にもスポットを当てたいという日頃の黒谷さんの想いがまさっているような印象でした。詳しくはネタバレで。

    ネタバレBOX

    原作を熟知した人にとっては「宝探しの楽しみがあります」と注意書きにありました。冒頭の赤い果実の皮が破れ、人が出てくる場面。なかなか面白かったのですが、最初、ほおずきかなーと思い、原作に出てくる果実は林檎とくるみの実なので「じゃあ、これはどっち?」なんて考えてしまって(笑)。また、必ずしも原作通りの時系列で描かれていないため、場面ごとに「?」がいっぱいになってしまうのが困りました。汽車ひとつとっても、ミニチュアの汽車のほか、手筒状の汽車の中に人形を入れて動かしたり、人間で汽車の動きを表現するなど、多様です。黒谷さんの考えでは、ジョバンニとカムパネルラの人形は単なる「人形」ではなく、俳優として演技をするとのことでしたが、観た限り、俳優にはなりえていないように思えました。だからといって、人形の遣い手が分身としてうまく機能しているとも言いがたく、人形のジョバンニとカムパネルラよりも、人間のパフォーマーたちの動きに気をとられてしまいがちでした。主役2人の人形が造形的にも素晴らしく、魅力的なので、使い方が中途半端に思えたのは残念でした。シーンがぶつ切りのようになっているため、最後、ジョバンニが駆け出していく原作では感動的なシーンも何か唐突に見え、いかにも人間が人形をカタカタ動かしているように見えてしまいました。『銀河鉄道の夜』は、彼らと共に旅をしているかのような一体感が魅力なのですが、それが体感できませんでした。そして、ジョバンニとカムパネルラの友情や、ザネリの事件がはっきりと描かれないため、肝心のテーマがぼやけてしまった気がします。エピソードが浮遊する中で、2人の人形も浮遊しているという感じでした。原作ではジョバンニが心の中で感じる「鳥を捕る人」と「野原の菓子屋」の二面性を、実際に俳優と俳優が使う「小道具としての人形」で表現した場面は面白かったです。しかし、これも原作を知らない人が見たら、よく意味がわからなかったと思います。
    この芝居を観たあとに、かねてよりほしかったアート作家清川あさみさんの絵本『銀河鉄道の夜』(リトルモア)を本屋で購入しました。ビーズ、刺繍、紙、布などを使って原作の世界を表現した美しい絵本ですが、清川さんが紙や布で作ったジョバンニとカムパネルラのほうが、この人形よりよほど「人間」らしく見え、宝物のように感じました。新聞の書評でも最近取り上げられているので、興味のある原作ファンはぜひ一度手にとってごらんになることをお勧めします。
    黒谷さんは、日本の人形劇における「出遣い」への不満を感じて、人形遣いと人形を同等に扱う演劇を作ろうと努力されていることがせんがわ劇場の広報でも紹介されています。このあたりの事情は、日本の人形演劇の文化の特徴でもあり、代表的な「文楽(人形浄瑠璃)」では、いまだに主遣いの人形遣いが黒子でなく顔を出す「出遣い」について異を唱え、名指しで非難する評論家がいることでもわかります。しかし、これは、人形浄瑠璃が本来、義太夫の語りと三味線が主で、人形は従であり、序列も人形遣いが三番目ということが原因とも言えます。最近は文楽人形の美しさに注目が集まり、人形の動きを観る客が主流になりましたが、本来は人形は脇役でした。ですから、中には「きょうびの人形遣いには、三味線は頭(かしら。人形のこと)に合わせてくれとか言う勘違いもおって、困ります。人形が合わせるのが筋でっせ」と苦言を呈する太夫さんもおられるほどです。
    ともあれ、文楽においては、たとえ、主遣いが黒子ではなく、紋付や裃を着て出遣いをしても、人形の演技はあくまでも俳優として立派に成立しています。それに比べ、今回のお芝居では、人形を遣う人も俳優の演技とは程遠く、人形もあくまで人形にしか見えなかったのは私だけでしょうか?
    「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」という今回のコピー。ジョバンニとカムパネルラにおいて、このテーマが伝わってきませんでしたが、黒谷さんは、このテーマで「人形と人形遣いが2人で1人」ということも表したかったようです。ただし、それも成功したようには見えませんでした。人形の演技を主にして、人間は生きた背景のように使う方法もあったかに思われますが、それでは黒谷さんは不満で、あくまで人間と人形を等分に扱いたい
    というお考えのようです。
    その場合、人間が今回のようにたくさん動き回るのであれば、もう少し人形のサイズを大きくしないと難しいのではと思います。

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    2010/01/27 22:55

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  • アキラさま

    >上演する場所をきちんと選択すれば、大人も観劇に来るでしょうし。結城座のようにそうやって公演をされている劇団もありますし。

    そう、会場にもよるのでしょうね。確かに人形劇=子供向けではないと思います。NHKの三谷幸喜の「三銃士」も大人に人気があるようですし。
    腹話術はたしかに人間と人形が同等で、演劇に近いですよね。
    文楽も世界遺産に認定され、最近は若い観客が多くなって、昔からのファンはチケットが以前のように買えなくなったって友人たちがぼやいてますよ。私も最近足が遠のいてしまいました。でも、名作のほとんどをいままでじゅうぶん観てきましたから、悔いはないですけど。
    いまは近松門左衛門が人形浄瑠璃の作家だったことさえ知らない観客もいますが、文楽が残ったのは、やはり近松のような優れた作家がいたことが大きいと思います。江戸時代は社会的制約もあり、人間で表現しにくいことや、人形のほうが表現できることを近松は書いていきました。今後も人形演劇の可能性は無限にあると思います。

    2010/01/29 21:51

    きゃるさん

    >アキラさまのような“原作熟知派”

    いや、まったく違います。今回の舞台を観て原作を探したのですが、手元にはありませんでした。たぶんどこかにはあると思うのですが・・・というようなレベルです。
    熟知してませんけど、好きな物語ということなんです。

    >私がサイズのことを言ったのは、今回のような演出手法であれば、という限定の意味です。

    なるほど、そうですね。そう意味であれば、わかります。
    だからこそ、人形にもっとがんばってほしかったですね。

    >人形より遣い手が目立ってはいけないというのが日本の人形劇の基本にあり

    人形と遣い手が同等なものに、交通安全教室(笑)やいっこく堂で有名な腹話術というものがありますよね。一般の観客としては、文楽などよりも腹話術のほうが近しい関係にありますから、遣い手が前に出ても違和感は感じないでしょうね。だから遣い手と人形が対等に演技できる素地はあるのでしょう。
    もっとも、腹話術は演劇ではなく、話芸ですが(笑)。

    >人形演劇の新しいかたちを模索する黒谷さんの活動には敬意を表しますし、興味深く見守っていきたいと思います。もう少し、時間がかかるでしょうかしら。

    おっしゃるとおりです。私はこの1本しか拝見してないので、結論めいたことは言えませんが、長年そうしたスタンスでなさってきたということですから、できればまた観たいと思います。「人形」と言うことで、子どものものであると観客が思ってしまう、といことを黒谷さんはおっしゃっていましたが、上演する場所をきちんと選択すれば、大人も観劇に来るでしょうし。結城座のようにそうやって公演をされている劇団もありますし。

    >「くぐつ」という職業への歴史的差別意識

    記憶は不確かですが、アフタートークで黒谷さんご自身は、自分は「傀儡」である、とおっしゃっていたと思います。

    2010/01/29 06:40

    アキラさま

    >でも、私は、タイトルで『銀河鉄道の夜』と言い切っているのですから、ストレートに見せてほしかったと思います。

    まったく同感です。
    私も原作どおりの上演だと思って行ったので、それには戸惑いました。
    『銀河鉄道』の夜は本当に不思議で素晴らしいお話ですよね。
    熟知派を前提に作られたにもかかわらず、アキラさまのような“原作熟知派”をも満足させられなかったのは本当に残念ですね。
    アキラさまのような原作ファンであれば、何十年も毎年クリスマスに『銀河鉄道の夜』を上演し続けている東京演劇アンサンブルの『銀河鉄道の夜』をぜひ観ていただきたいですね。長い歴史があり、芝居通には人気が高い劇団なので、もうご存知かもしれませんが。ここの“銀河鉄道”は、なぜか、20代の女性と50 代の男性に特に人気があるようで、劇場のロビーからして、宮沢賢治の世界を再現しています。



    >前に観た結城座の舞台では、長庵を演じる串田さんだけが人間の俳優でしたが、サイズを逆手に取って、サイズの違う違和感が楽しいものでした。
    サイズが違うならば、それをうまく使ってほしかったと思います。

    確かに結城座やホリヒロシさんの公演では、人形のサイズが違っても、違和感がありませんね。
    ホリヒロシさんの場合も、ご自分が共演者となったり、歌舞伎俳優と人形を共演させて成功しています。私が思うのに結城孫三郎さんのところの人形の扱い方は操りであっても、人形浄瑠璃の手法に近いので、調和するのではないでしょうか。ホリさんも同様に手法は文楽に近いです。ですから、私がサイズのことを言ったのは、今回のような演出手法であれば、という限定の意味です。あんなに人間がおおぜい出て目立つパフォーマンスをするのでは、よほど遣い手が巧くないと、どうしてもかすんでしまいます。しかし、今回の場合のように、市民との混成チームでは熟練度の問題もありますし、遣い手もパフォーマーの側面が強かったため、よけいに人間(俳優)と人形の遊離が顕著だったのではと思います。
    人形より遣い手が目立ってはいけないというのが日本の人形劇の基本にあり、それはチェコなどと違い、「くぐつ」という職業への歴史的差別意識も関連していると思います。そういう民俗的タブーに挑戦して人形演劇の新しいかたちを模索する黒谷さんの活動には敬意を表しますし、興味深く見守っていきたいと思います。もう少し、時間がかかるでしょうかしら。


    2010/01/28 07:22

    きゃるさん

    >私は私は『銀河鉄道の夜』の内容が出てきた“夢”を見ているような気分で、

    なるほど、それはうまい表現ですね。

    でも、私は、タイトルで『銀河鉄道の夜』と言い切っているのですから、ストレートに見せてほしかったと思います。

    人形の表現については同感です。
    ただ、

    >もう少し人形のサイズを大きくしないと難しいのではと思います。

    については、人形が存在感を示してくれれば、サイズはあまり問題ないのでは、と思っています。

    前に観た結城座の舞台では、長庵を演じる串田さんだけが人間の俳優でしたが、サイズを逆手に取って、サイズの違う違和感が楽しいものでした。
    サイズが違うならば、それをうまく使ってほしかったと思います。

    http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=9802

    2010/01/28 03:06

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