動員挿話【公演終了!ありがとうございました】 公演情報 サラダボール「動員挿話【公演終了!ありがとうございました】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    どっひゃー。
    こんな演出とは!
    前半は、少々・・・だったのだが、後半からの展開には目を奪われた。
    スサマジイ。
    演出の力を見せつけられる。
    もちろん、役者にもブレはない

    ネタバレBOX

    岸田國士氏の脚本の最初と途中に今回オリジナルの脚本を足したそうだ。
    今回の追加部分は、客いじり的な要素があり、観客との距離を縮めるにはそれなりに面白かった。
    ・・ったのだが、それにより、もとの物語の芯が少々ぼけてしまったように感じた。

    大切な夫、友吉を戦場に行かせたくないという妻の数代の行動が、この時代(あるいはどの時代であっても)、とても奇異なことであるということ、そう見えてしまうことに対する疑問の投げかけが物語のメッセージであろう。

    したがって、その登場から突然歌い現れて、顔を歪める数代は見るからに奇異な存在として観客に提示される。
    他の登場人物もほぼ変なテンションだったり、今風の話言葉や衣装なのだが、数代ほどは変ではなく、数代と比較すれば至って普通である。
    将校家のひとびとの、数代の登場に戸惑う表情からもそれがうかがえる。
    もともと数代はその存在が少々疎まれているようだし。

    本来は、その中にあって数代が「浮き」、一般の人々との温度差が露になるのだろうが、冒頭の新たに追加したシーンには、客いじりなどもあり、その独特のテンションの余韻があるまま本編に突入するので、登場人物すべてがほぼ似たような、変なテンションの変な人たちに見えてしまう。
    テンションが変なのではなく、現代風のチャライ感じの将校と女子高生のような将校の夫人のいでたちと、現代風の台詞という表面的な様子にも惑わされてしまっているだけなのだ。
    そのために、数代の存在という物語の芯がぼけてしまったのではないのだろうか。

    数代と他の登場人物たちの徐々に明らかになる差を明確にするためにも、この新たな追加シーンは、イメージのミスリードをしているのではないのかと思った。

    さらに中盤に差し込まれた、将校の息子の恋物語も物語全体の中での位置づけが見えてこない。相手の娘の変なしゃべりも意味ありげなのだが。

    登場人物の中で、衣装も演技も唯一シリアスなのは、数代の夫、馬丁の友吉である。彼だけがどうしてそうなのかがイマイチわからなかった。将校一家(一般の人たち)と数代の中間に位置する、あるいは何かに属することのないナチュラルな人ということなのだろうか。

    数代を演じた大西さんの、口調、台詞回しのトーンにはしっとり感があり、重さがある。だから変なテンションのとき、あるいは変な顔をするときは、痛々しい。
    その痛々しさが、伝わってくることがこの舞台のキモなのではないのかと思ってきた。それは痛々しいほどの人を想う気持ちであり、ホンネを口には出すことが憚れる時代の痛々しさでもあるのだ。

    後半の変なテンション抜きの彼女の表情や台詞には、さらに凄みが加味され、これは凄いと思わざるを得なかった。

    このトーンを持っている女優さんを使うのだから、彼女だけシリアスのままで、周囲の時代の波に乗っていてホンネを語ることができない人々のほうをハイテンションにする、というのが、(たぶん)正攻法に近い演出なのだろうが、それを選ばず逆の関係(周囲よりも数代のほうを変なテンション)にしたところが今回の舞台なのだと思った。

    ラストに訪れる悲劇は、結局、自分の夫への強い想いが裏切られ、夫に対して「それだけ」としか言えなかった数代の絶望感と哀しみの現れなのだろう。

    夫の出征に対して、死をもって抵抗した数代の行為は、この時代であれば、数代の思いとは裏腹に、逆に戦場に夫を送る妻の美談として祭り上げられてしまうのだろうな、という深読みもしてしまった。

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    2009/11/28 01:29

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