カレーと村民 公演情報 ニットキャップシアター「カレーと村民」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    だいぶ前に一度だけ観た関西の劇団。その時の印象とは随分違う。先日のトリコ・Aに続き、作り込んだリアル美術の前で、こちらは時代物。日露戦争後の世相を描く。とある町の名主の屋敷の土間(町の人らも出入りするセミパブリック空間)にお出ますは、洋行帰りの次男、その許嫁、家督を継いだ長男と嫁(ごりょんさん)、老母。ご近所からは戦地還りの兄とその妹、息子を失った母、息子が復員する事になった夫婦。屋敷には出戻りの手伝い(孫を失った)、そして新しい女中。
    (日清戦争と違って)戦死者も多かった日露戦争を終えた年。戦後賠償の額に庶民は注目している。「死に甲斐」を戦後賠償の額でせめて納得しようとした遺族が「賠償金ゼロ」の報に落胆し、やがて妥結した政府に対し撤回を求めて人々が立ち上がるという、史実の断片が切り取られている。提灯行列まで起こった「戦勝」だが、実際には人海戦術のロシア軍との際限ない営みにとりあえずピリオドを打ったに過ぎず、賠償を引き出せる内容でもなく、サハリン南部を取っただけでも御の字であったと、今は知られているが、考えてみれば戦争という賭け事の結果に相場など無いものを何がそうさせたのか。10年前の日清戦争で予期せず高額な賠償金を得たことにより「列強並み」へと持ち上げられた庶民の自意識の為せる業か。
    資本主義化の進行と共に、「お金」「領土」獲得ゲームに熱狂する俗物性が露骨になって行く分岐点はこの日露戦争であったと言われる。西欧コンプレックスから明治維新の混乱を経て、国民国家経営の仕組みを整えて行く内部の努力が、対外的に通用したのが日清・日露の戦勝であり、二度目の「成功」はその規模から10倍の賠償金を取りざたさせたが、それが不本意な結果に終わったのだった。

    作者はこの史実であまり語られない国民の犠牲(戦死)に焦点を当てたが、芝居の核は反戦にはない。ロシアによる「戦争」を扱う芝居の上演となったが、昨年中止された公演だからウクライナ侵攻を受けて書かれたものではない(改稿してれば別だが)。
    作者は特徴的な人物として、知識があり進歩的だが芯の無い次男という存在を置いている。維新以来、付け焼き刃の文明化を走り来った日本の「知」の脆弱さの象徴と見え、その一方情緒的で打算的な庶民はそうとは知らずに歴史を前へと押し進める。

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    2022/09/07 03:29

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