頭痛肩こり樋口一葉 公演情報 こまつ座「頭痛肩こり樋口一葉」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    数ある井上ひさし戯曲の中でも、随分前にある知人が「あの」と枕語を付けたニュアンスで本作を紹介していた事が頭に残り、気になっていた演目。そこへ「ちりとてちん」の貫地谷女史が出演とあって自分にしては早い時期に予約した(席は大分埋まっていたが)。
    宇野誠一郎作曲と思しい楽曲が心地よく流れ、歌が折々に歌われる。古い感覚が普遍性に届いていて心に沁みる。
    女性のみの舞台である事に途中ではたと気づいたが、女人芝居にしばしば見受ける息苦しさがなく広がりがある。家長であり仕事人である一葉の風情(社会に開いている)にも拠るだろうが、面々の個性の棲み分け、幽霊の存在も「広がり」に貢献している、
    「女性」の物語である事への気づきと共に胸を締め付けられるのは、後半の事である。男性の井上ひさしが、意図を悟られず周到に(難しいことをやさしく)、テーマを狭めず外堀を埋めてついに獲物をしとめるように核心を突く。達人技には唸るばかりである。

    休憩中にチラシを手に取り「答え合せ」をすると、増子倭文江に、若村麻由美の名。そして音楽監修に国広和毅の名が目に止まる。今回、宇野誠一郎の楽曲を(間違いないと思うのだが)新音源に誂え直している。中音域のストリングスが、あの「白い巨塔」(70年代の方)のオープニング曲の音色そのもの(シンセか本物か判別困難なアレ)で耳に心地よく、今回は「古さ」にある良さを再生する国広氏の仕事であった。芝居への貢献に徹する仕事振りには毎度舌を巻く。

    ネタバレBOX

    歴史人物を描いた本作だが「創作」部分も秀逸だ。
    一葉の周辺に時折化けて出る女がいる(若村)。これが違和感なく一風景に収まるのはこの日が旧盆で、芝居の冒頭には子供たち(演じるは本作出演の女優たち)が提灯を下げて「今年の盆の、、」と一しきり歌う。
    場面変われば大方が明治○○年七月十六日とある。終わってみればこの芝居は死者を迎える「お盆」にまつわるお話になっており、死者と生者が出会う風習を背景画にして生と死を(つまり生を)考える内容になっている。
    それはともかく、一葉にしか姿が見えないその女は、怨みを抱えて死んだらしい事は分かるが何を恨んで死んだかは覚えていないという。よくある話の範疇。樋口家の居間に出入りする女たちとの場面にもいつしか混じり、幽霊女がかつて身を沈めた廓時代に親しんだ芸者遊びの歌の一節も口から出たりする。ところが場面変り、一葉はその歌の遊びを好んだ芸者が一年前、ある男の身受けが成就せず死んだ、それがあなただと告げる。男は周囲を説き伏せて大きな借金をし、廓へ急いだが急ぐあまり五百両を入れた包みを落としてしまう。取って返すと辻曲りで一人の婆が懐手をして震えていた、だが問い詰めても婆は頑なに知らぬと突っぱね、絶望した男は身投げ、女も後を追った(だったか、もしくは絶望した男が詫びを入れに女の元へ行き、その足で二人してドボン)。そして決定的な証拠として、その婆は程なく大きな店を出した。
    ここでは、力なく浮遊していた女がやおら「風格」に満ち満ちて怪談めき、敵の元へと消えるという転換がある。喜劇のアイテムだった幽霊が、悲劇(のヒロイン)性を帯びるのである。芝居のジャンルが違えば喝采が起きる瞬間だろう。作者はこの女に「花蛍」という名(源氏名だが)を与えている。

    だがこの怨み晴しの顛末は意外な方向へ転がる。即ち彼女が化けて出た婆は、床を頭でこすって当時は息子が不慮の事で借金を背負わされ、つい目がくらんだ・・と事分けをする。これに「言いそうな話だ」と突っ込むのが一葉の方で、女の方は婆に同情する。そして婆の息子をだましたやつの元へ、怨み晴しに向かう。ところがそこにもやむ方なき理由があり、別の元凶が現われる。こうして己の恨みの源を探し歩いているという疲れ気味の女を一葉は労う。
    この幽霊女の「怨み晴らし」話はさらに続き、ある時一葉こそ元凶と息巻いて飛び込んでくる。以前一葉がある宴席で粗相をした小間使いをこっぴどく叱った事でその小間使いは別の者に当たり、その者は別の後輩に当たり・・巡り巡って自分は思い人と添い遂げられなかったのだ、と言う。一葉は「なぜ自分がそうしたか」を説明する(女は「またか」とうな垂れるが、これまでそうして来たように女は「事情」に耳を貸す)。実は一葉はその日、他の者が新調した着物を着ていた中で自分だけ古着を着て参席したが、女中は汁物をそれに零した。一葉はそれに怒ったのではなく、それを見て皮肉を言って笑った席を設けた会長さんだかに対して抗議していたのだ、という(こうした女の衣裳に絡めて貧乏や苦労話を挿入する所が作者の芸当の一つでもある)。幽霊女は会長の元へ飛ぶ。
    だがその後再び現われた時、怨みの因果はやんごとなき身分にまで遡及し、ついに皇后陛下まで辿り着いた事を女は告げる。ある会合である貴族に口を利かないというつれない態度を見せたのが、皇后の「落ち度」なのであったが、皇后は世の中に山積する事々を考えて物憂くなり、ついそういう態度をとってしまった、という。
    女は自分の恨みの源が社会全体に及んだと見極め、復讐を諦めた、と語るのである。

    この結末自体は読める。だが、井上ひさしが幽霊女を通して「やさしく」伝えた「難しいこと」を考える。この社会の全ての事象は(相互関与の可能性を排他的に証明できる場合を除いて)繋がっているということ。敷衍すれば、あらゆる犯罪も貧困も社会問題も社会的影響下で生じるという意味で全ての成員に責任がある、と言える。責任と言えば刑事責任の事を言い、法的拘束力のない「道義的責任」「社会的責任」「政治的責任」は問う必要がなく考える必要もない、という狭隘な社会観(というより倫理観と言うべきだが機能しない言語はやがて墓場行きと予測される)が、「繋がり」の社会観に対置されるが、急速に廃れ顧慮されなくなりつつある社会観でもある。日本の衰退の原因は他人が作った既存の「法律」を絶対視する、という態度に示されている。現状を不変と仮定し、そこでベターなポジションを得ようとするマインドが浸透した。実際にその固定した構造の中で息も絶え絶えの日々を送る者は、やがては法の埒外に救いを求める以外ないと気付くだろう。そこに悲劇がある。撃たれた安倍晋三は国の最高責任者としてどういう社会ビジョンを示そうとしたか。政治的責任など一顧だにせず「刑事訴追」がない事だけを己の政治生命維持の根拠とし、数々の疑惑を逃れるばかりか恣意的な検事総長人事を誘導した(法的責任はあっても起訴さえされなければ良い、という倫理的後退もお構いなしな態度)。
    全ては繋がっている、そこに自分もコミットしている、という社会観なくして社会を改善する意識など生じない。安倍氏は変革を促す政治家ではなく、諦めさせる政治家だった。殺害されて当然、とは思わないが、何かを思わずにはおれない。(井上ひさしの風貌を思い浮かべると、このくらいの事は言いそうだな、と思ってしまうが、氏の存在はこういう社会の変化自体許さなかったのではないか。。)

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    2022/08/14 08:58

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