実演鑑賞
満足度★★★
戦争にまつわる「動員挿話」以外の岸田戯曲に関心。勿論「動員挿話」も楽しみであった(私の中での出色は青年劇場のそれで、併演した秋田雨雀作「骸骨の舞跳」との合せ技で剛力な舞台であった)。
二人組の漫才のような一本「戦争指導者」(現代の漫才ノリでやるのでオチない)を挟み、一時間の「かへらじと」が上演される。これは1944年作、岸田國士の「戦争協力」期間に書かれた唯一の戯曲という。これをDULL-COLOREDは心情たっぷり心を込めた芝居にした。
戦争協力「せざるを得ない」劇作家が、質の高い作品を目指して物した戯曲でも、戦死した青年の武勲の理由を「忠君愛国」からズラすのには限界があり、虚しい努力と悟らざるを得ない代物であった。
谷賢一氏は本域でこの戯曲を舞台化し、男たる者の本懐を遂げた主人公を称揚する上官、隣近所、家族を登場させる。これが、居心地悪い事この上ない。
戦死の報を受けた家族の元に、戦地で彼が所属した部隊の上官だった者が負傷した足を引き摺りながら、彼の死に様を語り聞かせるために訪れる。異例の事である。
死に急ぐかのように敵前に突進し、一度目は戦果に繋げ、二度目は倒れた我らが戦士の行動に、実は幼い頃自分の遊び道具の弓矢で片目を失明させた親友の思い(兵役への志願)を肩代わりした意味を見出すのは、親友本人である。恐らくはその父、戦死者の母も・・。主人公はかねがね自分の妹がその親友と双方思い合っていて、親友が引け目を感じている事も知っており、妹をもらってくれと説得もするが、いじけた親友は自分が「真っ当」と評価されるのは徴兵検査で甲種合格して戦争に行く事しかない、という典型的な落ちこぼれ根性の体現者で、頑なにいじけている彼を見て、兄は妹に彼を諦めるよう告げもする。だが、上官の話の中で、無謀な行動に対する部隊長からの質問に、主人公が「自分一人分の命ではない」事を告げたという。親友はこの話を聴いて慟哭するのであるが、親友の父は息子にかわって英霊の母に、娘をもらえないかと申し入れる。つまり一つの命の犠牲が、国家のためでなく一つの命(夫婦の誕生)を生み出す因果に転換したのが、岸田國士の「苦肉の策」だったのであり、たとえ戦争協力を公言した身でも、「作品」が「国のための死」の称賛の手段に堕する事を許せなかった、と想像されるのである。
しかし、作品自体は戦争が否定されていない点において、一つの武勲を生んだ「裏話」の域を出ておらず、戦中の価値観が充満し、こういう風景が再び日本に訪れるかも知れないが、満更でもないな、そこにもドラマはあるのだ、と思わせる。
ウクライナ侵攻が、日本の防衛理念転換のエポックになろうとしているが、なるほど、兵役対象年齢の男性が出国禁止となっているウクライナに、よりシンパシーを覚える日本人は、「巻き込まれた戦争」に殉じる「物語」を抵抗なく受け入れるのかも知れない。本作はそのイメージトレーニングの意味を持った。これがダルカラ谷賢一氏の意図であったのかは聞いてみたい。
貴重な戯曲紹介ではあったが願わくは的確な注釈なり演出を施されたかった。