正義の人びと 公演情報 オフィス再生「正義の人びと」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「正義の人びと」6度目の上演という。Corichの過去公演ページの2公演を見ると役者数が少しずつ減り、今回は戯曲上の役は5名(他一名は作者の役)、上演時間も1時間45分で、大胆にテキレジを入れていると思しい(俳優座での上演と比較してもだいぶ削られている)。

    演出が印象的だ。地下の一室の会場は、中央に地上階から階段がくの字に下り、奥側に大きく死角があるが、タイプ机が置かれ、作者カミュらしい男がタイプを打ったり佇んだりしている。役者も役人物として奥か上手ドアから出入りする以外は、ゆっくり移動したり佇んだりする。奥からの光が中央の「オブジェ」によって幻想的に動き、ドラマを胚胎す場所(あるいは歴史、あるいは人間の想念)であるかのように揺らめく。

    物語は帝政ロシア時代の末期、大公暗殺に至るテログループの群像劇であるが、「正義」とその「実行」(暗殺)との乖離に揺らぐ人間心理が活写される。女優5名の内4名は男の役をやり、これが殆ど違和感も不足感もなく、非情な任務を自らに課する事となった緊迫感が、それぞれの個性において表現されていた。
    ストレートな俳優座の上演より、戯曲の中心軸をとらえ、回した独楽の如く整然として切れ味がある。

    ただ、暗殺を遂げ囚われの身となったカリャーエフの元に届いた大公夫人(未亡人)からの手紙が読まれるくだり、何処か冗長な感じがしたのだが、今言葉にしてみると・・
    それまでの「内向き」の言葉の世界を表すに相応しい劇場環境と演出が、この時初めて、「外からの」声によって心がかき乱される、その瞬間として何等かの変化を見たかった所、「声」は相変わらず内なる心の問いのように響いている(演出的な工夫として、散在していた縦長の板(実は鏡だった)が彼を囲い込み、罪責感と向き合わせられるといった意味を付与していた)。
    その声は、カリャーエフが元来持つ繊細で豊かな感性が、自らの良心から発する言葉とも思えるので、外界の、つまり実在の他者が物理的存在として現前した感じがしない、という憾みだ。
    (そこが星5にはもう一歩、と思わせた要因のようである。)

    しかし繰り返しになるが、愛を信じる故に悩むカリャーエフ(岩澤繭)、その恋人で爆弾製作を担うドーラ(あべあゆみ)、メンバーの扱いに長け理解力を示しつつグループの規律を重んじるアネンコフ(磯崎いなほ)、絶望と心中するかのように復讐の徒として暗殺計画を遂げようとしているステパン(加藤翠)、最初の計画で実行部隊となり、失敗によって心が折れた若いヴォワノフ(嶋木美羽)と、その演じ分け(役人物の内面化)には深く感じ入った。
    最後は奥で作者を演じていた長堀博士氏(立ち姿を初めて見た)がつかつかと前に出、一人挨拶して終演を告げたのも、そぐわしかった。

    ネタバレBOX

    演出の高木氏の肩書「照準機関」は何時だったか目にした記憶があるが、職務的には「演出」の事をそう表現しているようである。同ユニットは2010年代に年2~3公演(3日間5ステージ)をコンスタントに打っているが自分は知らなかった。
    見沢知廉の文章を取り上げていたりトークゲストに鈴木邦男氏の名があったり、取り上げる題材、関心対象が特徴的、「闘う人」の中でも独特な立ち位置がある。「正義とは何か」、そして孤高の存在。「正義の人びと」の舞台を手掛かりに問題関心の奈辺にあるかが推察できそうではある。正義を追求すれば先鋭化し、過激化しかねない。それにより(支配構造の中に生きる)大多数の人々の感覚から離れて行く。だが、だからと言ってそれが「正義でない」事になるのか。芝居を観る者と芝居の中で行動する者との間にあるのは時間差であって、歴史上の現時点での通念が、果して将来歴史を眺める観客の目にさらして「正しい」と言えるのか・・こう問うならその者は孤高への一歩を踏み出している。

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    2022/07/07 09:27

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