満足度★
作演の采配を疑う
昨年観た「ドンキホーテの恋人」がよかったのと、
過去10回共演しているハマカワフミエが客演していたのと、
今年から毎月一緒にイベントをやってるミ世六メが音響だったのと、
好きな俳優である廣瀬友美の舞台であったので観劇。
結果、ドンキホーテと比べるとかなりつまらなかった。
好意をもっている上記の3人も
そこに彼らが必要である理由はそれほど見当たらなかった。
フライヤーにあるように不毛をひたすら描くのかと思っていた。
でも、観劇してみると違うように感じられた。
大切に描かれていたのは、
不毛の先にある
「捕食される側だって腹が減る現実」とか
「巣が壊されても生きてれば再び待っている労働という現実」
のように感じた。
そこでようやく救われ、チケット料金に見合うだけのものを
ぎりぎりラスト10分くらいで佐藤みゆきの芝居に観た。
遅いっつーの!
問題は全て作演にあって、俳優もスタッフワークも美しかった。
作演の采配に疑問を持ったところを2つ挙げる。
2つしかないけど本当に大事な2点なのだ。
1.主人公二人の描かれ方の比重が青年に偏っていること
女店長と学生の話なのに、出てくるのが学生ばっかで
彼一人が主人公なのかと思ってしまった。
映画サークルの友人やメイド喫茶の女の子など
登場人物の多くが青年に関わるからだと思う。
(また、厳密に言えば彼ら4人はいなくても
作品は成立する。大事じゃないのに厚ぼったい。)
それらの人間関係の活写に割いた時間の半分くらいで
女店長と花屋夫妻は食物連鎖や不毛を体現していたように思える。
役者の実力差でもある気がするが、
登板の配分を決めたのは作演だ。この采配には違和感を感じた。
ニーズ(知名度)もテーマを体現する力も佐藤みゆきが勝るのに
作品のメインを青年にする必要があったのだろうか。
また、ニーナよりも花屋の夫のほうが遥かに女王然としていて
説得力があった。なんかバランス悪かった。
2.ニーナの描き方
自分が感じたニーナの説得力のなさは
ハマカワフミエのせいでは決してない。
作演の描き方の浅さによるものだと思う。
ファンタジックな作風なわけで、
当然リアリティーのない設定や台詞も多い。
そこを差し引いても、あのニーナじゃ納得いかなかい。(俺は)
もっと青年をフツーな男子にして、
ニーナを控えめにしたら怖かったと思う。
今回の二人の描かれ方はあまりにも安く、
両者ともに愚かしすぎて、移入できなかった。
いそうじゃなさ過ぎる?というか。
その移入にしくい二人が前半特に中心になって
登場するからステージに引力がなかった。
そのまま後半の土下座して踏みつけられるシーンへ
行くから痛い。本来ならばシーンの空気感で
痛みを表現しなければならんところを
シーンの寒さで痛かった。
深夜枠とかで昔やってたケータイ小説のドラマ化みたい。
(Deep Loveとか)
ギャグならありだが、役者の様子を観ていると
ギャグやってるようには思えなかった。
最後に
自分が思ったのは、このカンパニーは現実世界に
近いものを描けば描くほど不具合が出るのかもしれない
ということだ。
ギャンブラーの友人がいきなり部費を渡したのは
いくらなんでも不自然とか。
2作しか観てないのに、偉そうで申し訳ないが
2作を比べたら違いはそこだ。
考えてみたら俺が感銘を受けた「ドンキホーテの恋人」だって
主人公は「いそうじゃなさ過ぎて」感情移入できなかった。
でも、それは恋に狂っちゃっているドンキホーテ(ほぼ妖怪)として
描かれていたから「あり」だったのだ。
また、奇才 廣瀬友美の「あり」にしちゃう力量もそれを手伝った。
もうちょいヒロセを重用し(これ大事!)、
ぶっとんだ設定でやったらまた違ったのかもしれない。
これだけ批判するからには観客といえども
代案を出したほうが男らしいと思うので
極端な例を挙げれば…
ニーナは蜂で、日が沈むと人間になってセックスがすごくイイ。
でも、グレムリンのギズモみたく飼うにはルールがあって、
やたら金もかかるから、ニーナに本気でイカレている
昆虫マニアの男は、借金まみれになりながらも
人生削って飼ってるとか。
全然恩を返さない鶴の恩返しみたいな。
こんな設定だと女店長とつながらなくなっちゃうけど
そのくらいぶっ飛んでたらいろいろ気にならないし、
幻想的な照明・音響・舞台美術もさらに映えると思う。
勝手言って大変失礼。
でも、そんなに感情的には書いていないつもりだし、
僻地までわざわざ行って2500円を払ってるから
ハッキリ言わしてもらいました。
休日の貴重な4時間を、この作品に費やしてらんねんだよ。
という奴もいるんだってことで。
参考にしてください。
あ、これが無料公演だったら☆☆☆だ。