最後の炎 公演情報 シヅマ「最後の炎」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    ドイツの女性劇作家デーア・ローアー作品は劇団TEEがしばしば訳出・上演していたが未見。(観た人から感想を聞いて晦渋な印象があったので・・。子供向けに書かれた最近の上演は観劇したがこれは面白かった。)

    立ち上げ当初から注目していた(自分への)義理で内容不詳の舞台を観に行った。間近になって「あのデーア・ローアー」と気づき一瞬怯んだのだが、逆に期待するこのグループを通して未知の劇作家を発見できるのでは・・と久々のSpaceEdgeにわくわく足を運んだ。

    この小屋の内部をこう設えたか、と目をパチクリ。漂白色の段ボールを剥いだ裏側(デコボコした)を、横長の階段式客席と、同じ階段式の演技スペースにまで敷き詰め、かなりセンスを感じさせたファーストインプレッションは開幕以後も続いた。
    確かに手の込んだ戯曲という感触であるが、目立てが的確で俳優の立ち居に清冽さがあり、陰と陽、静と動の緩急が絶妙(出来の良い弟子のように作家の狙いをハイレベルで具現している)。
    休憩を挟んで2時間50分程だったか(少々記憶に自信ないが2.5~3時間の間)。終盤にややきつい時間があるが、幕までに十分に回収してドラマの全体像を観客にしっかと受け渡す。役者皆がこの作品と作品の根底に流れるものへの奉仕者に徹し、共有していると信じられる事は、演劇の可能性(大胆に敷衍すれば人間・社会の可能性)を信じたい者にとってどれほど勇気づけられるかという話であるが、この劇作家が広く評価されている(と聞いた)本質に通じる所だろうか。。(判らんが)

    この作品の風景が日本では見られないものとして迫ってきた理由には、戦争責任への向き合い方における彼我の差が連想される。戦後ドイツがナチス時代のホロコーストに対峙し、「償い」の姿勢を示し続けて来た内省的なあり方には、やはりキリスト教が介在しているに違いないが、単純比較で日本の戦後の「加害への向き合い方」が浅薄であった事は「人間をジャッジする」(神的・超越的な)存在の不在が大きいのだろう。
    「正しく苦しむ」(真の癒しを得るため)道が開かれている社会と、利得感情(自分の、だけでなく周囲のため、が混入するから絶望的にややこしくなる)に従って「嘘」をつき続けなければならず、癒される事のない社会との差、と表現する事もできるだろう。だが、この「向き合い」には当然、多大な苦痛が伴う。その風景が、この作品では描かれている。だがその苦痛を避けずに持ち、何から生じる苦痛であるのかを直視し、もがきながらその先を見通し進んで行く姿も作者は描く。

    ある不幸な交通事故(死んだのは子供)が起きる。一人息子を亡くした夫婦と、認知症化した祖母(孫がまだ生きていると信じている)、事故を起こした青年(不遇な生まれだがボルタリング選手の夢を見出すも躓き、薬物依存となった)、その車を追跡し事故のきっかけを作った事に悩む女性警察官、そして事故を目の前で目撃した帰還兵(戦争体験からのPTSDに悩む)・・彼ら全員に共通するのは、それぞれの形ではあるが「罪責感」と向き合わざるを得ない「現在」を生き、逃げようがなく「苦痛」である事だ。
    他の登場人物として、事故を起こした青年と同居していた親友(事故以来青年が部屋にこもり、部屋に入れなくなった)、息子を亡くした夫(教員)が一目惚れした元美術教員の女性がある。その女性と特殊な関係を持つ事となるのは女性警察官。

    ドイツ社会でもこの作品の人間ドラマは「理想」なのかも。子供の事故死に連なる己の「責任」は、己の行動が己の責任においてなされている前提なくして発生しない。日本では己一人の責任において行動を決する意識が希薄、そもそもそのような行動自体が奨励されない。「周囲を見て」「皆がやってるから」する行動が大部分を占めているため、戦争を起こした軍部と同じく、制度的には自由社会、公共の福祉に反しない限りの自由と権利が与えられていても、行動の根拠そのものは「己」ではなく「全体」「周囲」にある。その意味での責任概念は時代が下るほどに希薄になり(自己責任論は深まったが)、その代り「管理」への要請と依存が高まった。
    己の責任で行動するからその結果に対し己の責任を痛感する。女性警察官に象徴されるが、彼女は事故を発生させた張本人だと自分を認識しており、しかし法律が裁くのは青年である事を知っている。罪と処遇の乖離が彼女を分裂させ、彷徨が始まる。この苦しみは(法違反ではなく根本的な意味での)「罪」の自覚からしか生じない。
    日本では集団規範(縛り)が罪意識の源であると感じる。社会を生きるには他者が必要で、それは一つの集団だと捉えられている(共同幻想)。日本の民主主義は個人の考えを言う事ではなく、集団として進もうとしている方向に「協力する」事で実現すると感覚レベルで理解されている。それは手段であり、目的は「民のため」だから民主主義という事なわけである。
    彼我の違いを考えながら、人生が「変わる」事が可能でドラスティックな可能性を秘めていると感じる事のできる社会はどちらか、という事を思う。

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    2022/06/12 05:12

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