実演鑑賞
満足度★★★★
ダークでグロテスクだけど、どこか品のある大正レトロな江戸川乱歩的雰囲気が横溢していた。見ながら「江戸川乱歩みたい」と思っていたら、あとで原案が江戸川乱歩だと知って、なるほどと思った。とくに前作の「お勢、登場」は乱歩の7つの短編からできている。今回はキャラクターは生かしているが、話はオリジナル。
後妻お園(大空ゆうひ)と政治家(梶原善)と医者の密談で、奥座敷の当主を無理やり精神病院に入れる。娘のあきら(福本莉子)と居候の自称作家のお勢(倉科カナ)はその一部始終を見て、表面何事もない風ながら、ひそかに彼らの罪への罰をくだすことをはかる。その量刑は常識的には全く釣り合いが取れないが、父を偏愛するあきらにとっては当然の報いだ。美しい(これ重要)お勢の魔性がそれをあおり、実行する。当主の妹の有閑マダムの池谷のぶえのいやみぶりも、江口のり子のしたたかな女中ぶりもさえていた。
舞台装置が素晴らしく、乱歩的な錯綜した話をみごとに支えていた。(倉持氏とのアフタートークで白井氏も、前振りのコロナでの中止の話題の次に、この装置を話題にした)。スライド式の箱と障子をいくつも入れ子のように組み合わせた二階建てのセット。個々の部分が奥に引っ込んだり、舞台袖から現れたり、上下に障子が動いたり、中央に階段が現れたりと、変幻自在。手前の舞台の奥に、桟をすかした廊下ができるのも、邸宅の奥行きが出た。応接間、子ども部屋、病院、書斎、公園(マッピング映像がうまい)、井戸、電気工夫の部屋等々をスムーズに立ち現せる。
物語も時間を「半年前」「昨日」などとテロップがてて、時間を行き来する。この入り組んだ時空構造がこの作品の肝である。冒頭の後妻たちの注射器を持っての決起シーンと、お勢とあきらの「あなたは何がしたいの?」「したいということは本当にしたいことではない。したいことはすでにしている。だから私のしたいことは、今までしてきたことの中にある」という冒頭の会話も、劇の進行とともに鍵場面として再現され、その意味が解る。
タイトルロールのお勢は、ほとんどの間、傍観者であり、ことを行うお園が主役のようにみえる。他人のうちに入り込んだ居候が、その家のドラマを見つめ介入するのは筒井康隆「家族八景」を想い出した。
歴史・社会とのかかわりは薄いが、女性の「子を産む道具」扱いされる無権利状況、精神病院の虐待ともいうべき患者の処遇、醜悪な金権政治がこの作品の根底にはおかれている。