メリー・ポピンズ【3月26日~30日公演中止】 公演情報 ホリプロ/東宝/TBS/梅田芸術劇場「メリー・ポピンズ【3月26日~30日公演中止】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    作品そのものが長い宿題になっていて、以前本を買ったが未読、映画は先には見まいと取ってある(この状態が10年以上)。すぐ手が届く所にある未知なるファンタジーが、舞台でロングランの報。いつか見られるな、と悠長に構えていたら東京公演終了が迫り、「わしがメリー・ポピンズか..」と若干の逡巡を払って観劇した。
    (貴重な観劇枠であったので他の「ケダモノ」「フェアウェル、ミスター・チャーリー」のいずれかを決めかね、まず「ケダモノ」脱落、残る二つをギリギリまで迷った挙句こちらを取った。その判断の当否について言えば・・、「メリー・ポピンズ」はミュージカルとしての予想を超えては来なかった印象。全くの未知数であったもう一つを観たかった・・というのが正直な気持ち。)
    とは言え、マジカルな演出は優れもの、緻密なテンポ感と緩急、歌唱力と、観客が「心地よく」なる道具立ては十二分に配され、「商品」として評価するなら「値段に相応しい中身でありました」と答える事になるだろう。

    ネタバレBOX

    自分はミュージカルの追っかけではないが、ミュージカルである『RENT』『リトルダンサー』に「感動」を覚えたのは、やはりドラマ性とそれを支える(補完する)楽曲という事になるのだろう。
    過去僅かながら観て今一つだったミュージカルが「超えてこなかった」理由の大部分は楽曲に感情移入し切れなかった事によると思われるが、ドラマ世界を理解しきれなかった感触が残る場合は己の鑑賞眼の未熟さもあるか、とも思う。ただ今作は、ドラマとしては比較的シンプルである。
    一点、子どもの空想的世界と大人の世界との接点が大きな楽曲の場面として描かれる部分がある。ストーリー的には「寄り道」であるが、得てしてミュージカルではこの部分に根底のメッセージを投射する要素があったりする。
    前半、主人公たる「世話の焼ける子ども(姉・弟)」がメリー・ポピンズに連れられて公園に出かけ、人格化した銅像や羊たちと戯れる場面では、メリーのこの世ならぬ魔法あるいは子どもの想像力が、「現実世界のドラマ」に食い込む重要なファクターとして提示される。だが後半、メリーと友達になる若い煙突掃除夫と、その仲間たちによる転調に転調を重ねる壮大なダンスが、前半の「寄り道」をグレードアップしたものとして展開する。人々が知らない夜の屋根の上で、自由な世界を歌い上げる大曲では、つまらないしきたりに縛られない誇り高い精神(アメリカらしい)が二人の子供も巻き込んで歌い踊られて行く。(実はこの場面こそドラマ的には最大の見せ場に違いないのだが、楽曲では気持ちがもう一つ上に行けないもどかしさがあった。ティンパニーのドンドンの響きは作曲家的には「盛り上げ」効果を狙ったものなのだろうが、「行進」のようになってしまい(自由と権利を求めての行進が1950、60年代にあったと聞くがそうした時代を映したものだろうか)、屋根の上ならもっと浮遊とか飛躍をイメージしたい所、地上に引き戻される感じがあった。まあ私の感覚ではという話だが・・『RENT』を観た者としてはもう一つ突き抜けたい欲求を否めない訳なのであった。)
    演出的には、三階席の後ろまで飛んで行くメリーの壮観なラストや、煙突掃除夫が舞台前面のプロセミアムの枠を一周歩く「見せ場」では、ロープが殆ど見えなかったり、「え、今のどうやった?」と目を凝らしてしまうプチマジカルな瞬間もあったり、場面転換の妙、装置の美しさと舞台技術を「ふんだんに」投入した感ありである。なのであるが、最終的に人はドラマを見、ミュージカルにおいて音楽とそれは不可分という事である。
    そう考え来ると、子どもたちを正しく導く使命を担わされるメリーの人物造形についても、考える所があった。「この世ならぬ力(見えない所で使うが子どもには見せる部分もある)」「相手に有無を言わせぬ迫力」が強調されていたが、「子どもたちを導くようプログラミングされたマシーン(AI?)」に見えなくもない。人間として見るならそこに人格、性格気質が伴うがこの舞台でのメリーはそれらが払拭されている。このメリー・ポピンズ像はスタンダードなのか?? 今度は晴れて映画を観てみる事にしよう。

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    2022/05/02 14:32

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