ぞうれっしゃがやってきた 公演情報 公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター「ぞうれっしゃがやってきた」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    ドヴォルザークの「新世界より」第2楽章のメロディに詞を付けた『遠き山に日は落ちて(家路)』を始め、「新世界より」の曲が印象に残る。沢山の唱歌、リズミカルな振り付けや打楽器が愉しげで、口笛やオノマトペが効果的。9名の役者は列車になり、象になり、子供達に兵隊に空襲にと变化(へんげ)していく。このメンバーの強みは普遍的な話が出来ること。子供を対象に物語を伝えようとする場合、かなりの技量が必要とされる。

    昭和24年、日本にいる象は名古屋の東山動物園のエルドとマカニー、二頭のみであった。東京の中学生の少女が、妹に本物の象を見せてあげたいと手紙を書いたことから、子供達に象を見せる為の列車、ぞうれっしゃが走ることとなる。
    少女は戦前に父親と上野動物園で象を見たことがあった。父と二人きりで出掛けた唯一の想い出。その父は徴兵され出征したまま帰ることはなく。
    走るぞうれっしゃの中、妹に知る限りの象の話を聴かせる少女。昭和12年、木下サーカスから東山動物園にやって来た象は四頭いた。

    主人公の少女とエルドを演ずる福寿奈央(ふくじゅなお)さんが素晴らしい。全身を使っての表現で視覚的に飽きさせない。汗だくの熱演。役者のレベルが総じて高い為、何時の間にか妙な親近感を覚えていく。
    「銀河鉄道の夜」を思わせるぞうれっしゃの旅、上野を出発して名古屋の東山動物園で象に会うまでの短い間に、少女や観客は「ほんとうの幸い」を見つけることが出来るのだろうか?

    ネタバレBOX

    多分加筆部分なのだろうが、鼠一家の話から虎の兄弟の亡霊の話などに違和感を感じた。語るべきは徴兵された飼育係や父親の行く末、象達や姉妹の淡々とした日常風景の積み重ね。二頭の象と姉妹との邂逅(同一人物が演じている為、物理的には不可能だが)こそがこの物語の目的地なのだ。

    本物の象を見ることが子供の夢になれた時代。戦争(強大な暴力)に屈服させられ支配されていく個々の自由。ただただひたすらに無力で時が過ぎるのをじっと堪らえて待つだけ。唯一、ぞうれっしゃに現れた死んだ父が「会いたい時にはいつだって会える」と主人公に伝える場面が仄かに希望と灯る。心で思い描き記憶から紡ぎ出せたのなら、例えそれが妄想だったとしても充分にまた逢うことが出来る。この、ぞうれっしゃのお話も遠い遠い昔の誰かの記憶を想像力のバトンで手渡したものなのだから。

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    2021/08/10 16:28

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