花のもとにて春死なん 公演情報 ピープルシアター「花のもとにて春死なん」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     現代社会の断面を切り取った問題作にして衝撃作。老人問題は、“人生100年時代”どころか「生きろ」ではなく「遺棄老」といった扱いである。
     戦後のベビーブームに生をうけ、増えた人口のままに数々の流行と需要を作り、高度成長期、バブルとその崩壊を経て良し悪しはあっても日本経済を支えてきた。一方で「一億総中流」といった意識、過当競争、過剰設備を残したこの世代が年老いた今、日本人の戦慄の未来、いや現在を描く。初演が1985年、なんという時代の先取りか(脚本の一部書き直し、配役は全員新規メンバー、演出も新たにしていると)。
     また、相手の気持や立場を考える、人間はひとりで生きているわけではないーこんなもっともらしい、そして きれいごとを言う典型的な日本人への自業自得(自立しない、他人任せ)ではないのかといった逆説的な問題意識も突き付けているようだ。
     日本の今、そして狂気の老後問題を感じたければ、この作品を観たまえ!と言いたくなる(年齢がそう言わせる)。
     物語のラストは、観客の受け止め方が異なるかもしれない。何もあそこまで描き切らずとも、観客に委ねてもと言った感想があるかも…。事実、自分も観劇直後はそんな思いもあったが、帰宅する頃にはあそこまで描くことで、より老人問題が鮮明に出来る。敢えて踏み込んだ領域とも言える。観応え十分。
    (上演時間2時間 途中休憩なし)

    ネタバレBOX

    舞台は「こころの里 桜の杜むつみ苑」。低い段差、中央奥は演壇のような高さ。所々に萎れた草というシンプルなもの。中央上部に桜が見えるが、当初 桜の木という心象風景と思っていたが、それはこの老人ホームの飾り物。つまり偽りの桜。老人ホームにいる人々の何も「無い」という心象を表している。劇中「老人は夢、希望、欲を持ってはならない」と。ただ静かに時を過ぎるのを待つだけ。生き甲斐を持つことは許されない。死への旅路の準備期間なのだ。かと言って準備することは何もない。が突如、日本国に姥捨山法が施行され、救いのないラストシーンへ…。

    冒頭、老人姿勢から直立しタンゴを踊るシーンから始まる。生き生きと踊る姿、しかし間もなく「静かに!」という看護師の一喝で沈鬱な状態へ逆戻り。物語はホームに入所している老人たち1人ひとりの生き様なりを切々、淡々と描く。戦災孤児、口減らしのために身売り、同性愛者(少数=弱者視点か)等の人生を次々に展開していく。同時に老人に見(看)られる健忘、妄想、せん妄、痴呆、排尿障害といった症状を非生産的に描き出す。
    子供叱るないつか来た道、年寄笑うないつか行く道 といった言葉は空しいだけ。

    この姥捨山法は、単なる老人排除(殺害)に止まらず、老人問題の根本を考えず安易な方法で解決しようとする。つまり現役世代の大人たちは思考停止、傍観し不作為を決め込む。そして実行部隊は子供(14~16歳くらい)に任せるという無責任さ。さらに法の但書きには、年収2億円以上あれば適用外という富裕層優遇措置、まさに現在の貧富格差への揶揄・批判。

    登場人物は個性豊かな老人たちで、役者は猜疑、相愛、嫉妬のような感情を表しつつ、踊ることで生きているを体現している。その精神・肉体の表現力は素晴らしい。中でも、自分を絞殺してくれと頼む姉婆(前田真里衣サン)、それを何か(月の不思議な力)に憑りつかれたように実行するメリー老(片平光彦サン)の謂わば嘱託殺人(自殺ほう助?)の場面は圧巻。この場面で歌われる曲(あざみの歌)、哀愁溢れ実に印象的だ。
    日本で“月”が登場する話は紫式部の「竹取物語」が筆頭に挙げられるだろう。周知の通り、竹取物語の末尾に登場するのが不老不死の薬である。月と不老不死は月が欠けていって死に、また満ちて生き返るため ごく自然に再生の象徴とされている。その月を敢えて用いることで老人問題(社会批判と死生観の両方)への鋭い切り込み材料にしている。見事な公演であった。
    次回公演も楽しみにしております。

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    2021/07/02 08:47

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