斬られの仙太【4月25日公演中止】 公演情報 新国立劇場「斬られの仙太【4月25日公演中止】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    戦前の左翼運動を幕末維新の水戸・天狗党に仮託して描いた作品である。農民(大衆)と武士(知識人)の関係をニヒルなまでに冷徹に捉えている。尊皇攘夷の大義のために天狗党と行動を共にした農民の仙太(伊達暁)が、藩の内部抗争にあけくれる運動の実態に嫌気をさして一度は田舎に引っ込む。それでも、天狗党の加多(小泉将臣)に説得され、再び運動に身を投じたのに、最後は切り捨てられる。

    加多はかつて仙太の疑問には理があると感じるような広い視野をもつ男である。それでも、最後は泣いて武士の側に立つ。維新後の自由党も、結局、天狗党と変わらないというニヒルな見方もされている。「農民のことを本当に考えているかどうかを見極めなきゃダメだ」というせりふがあるが、そういう革命党なら信頼できるとも取れるし、そうでないから革命党は信頼できないともとれる。左翼演劇の当事者だった三好十郎の転向表明とも、運動批判とも、信条告白とも取れる。前向きに取るなら、農民大衆の側にたったカッコとした運動を作ろうという呼び掛けでもあろうか。

    大きな維新の動きを狭い筑波山近辺の出来事で描くので、「オフェーリアの死」の知らせのような、伝聞情報が多い。と思っていたら、ここぞというところでは真剣で斬り合う剣劇シーンが見られて、盛り上がる。女性の少ない芝居だが、芸者役の陽月華に切ない花があった。まじめに働き続ける段六役の樋口寛之も、みんな頭に血が上っている人々の中で、ホッと落ち着ける存在感があった。

    もと戯曲は7時間あるのを4時間20分(20分の休憩2度含む)にカットしたというが、話に無理はないし、ほとんど長さも感じなかった。見終わって、清々しさが残った。スピーディーでメリハリのついた見事な演出だった。舞台は、奥がかなり高い傾斜舞台で、セットはほとんどない。そこにふすまを置いたり、木戸を置いたりして、場所の違いを示す程度。目で見るというより、語って聞かせる濃密なセリフ劇である。ただ衣装や刀は幕末の農民、武士をしっかり示していた。

    ネタバレBOX

    6月にNHK BSプレミアムで、放送。それを見ると、上の台詞はだいぶ違った。
    「上に立ってわあわあいう奴は当てになんねえもんだ。多数の中には一人二人、欲得ズクでねえ立派なのもいるが、頭の中の理屈で考えてるから、いざとなると食うヤ食わずの下々のことを忘れちまう。農民、町民、貧乏人が自分で考えてし始めたことでなきゃ、貧乏人のためにはならねえもんだ。」

    知識人、学生など前衛等のリーダーになる人への不信がはっきりしている。「貧乏人が自分で考えてし始めたこと」と、評価できる範囲を非常に狭くしているのは、たとえ、「階級的、思想的にはプロレタリアート」の立場にあっても、出身、生育環境として中上級の知識人中心の運動に対する明確な批判である。単にセリフだけではない。侍の加多が仙太を最後は切り捨てる展開が、知識人批判を物語に具体化している。

    村山知義が批判したのもわかる。三好十郎もかなりこの時は踏み込んで、はっきりしている。

    他に、負ける、死ぬとわかっていてなお突っ込む意味について、加多は「我々は肥料になる」と言っていた。戦艦大和のシラブチ大尉と同じ。
    シンゴザは仙太に「デクの棒」と批判し、「そうかもしれねえ」と。これで一度は田舎に引っ込む。もう一度加多についていくのは、お蔦が死んだから。『仕返し?」。今回そういうセリフはなかった。シンゴザが娘に「生きて会えると思うな」と別れを言ったのを聞いて、急に「すいません、手持ちの金を全部」と、仲間に加わる。シンゴザの影響とも言える。
    一幕の最後、賭場を荒らした仙太に、加多が天狗党に誘う。燃える真壁の街を見ながら「この炎が日本国を清めるのよ」というのも高揚感を覚えた。「たとえ、蜂起の勝算がなくても、俺たちは狼煙になる」とも言っていた。後の「肥料」とは、情勢判断が違ってくるが、死んで、後に託すのは同じ。

    0

    2021/04/16 11:23

    1

    0

このページのQRコードです。

拡大