12人の怒れる男・12人の怒れる女 公演情報 江古田のガールズ「12人の怒れる男・12人の怒れる女」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「・・怒れる女」を観劇。額田やえ子翻訳の古典がどの程度原作に忠実でどの程度脚色されたかは分からないが、指紋やDNA鑑定といった科学捜査の無い時代、という要素を除けば、俳優らの現代感覚と共に台詞が吐かれる舞台は、不思議と成立した。
    野球観戦野郎、ヘイト野郎、個人事情むき出し野郎、確信犯的付和雷同野郎が、米国産映画でも「正義」の障害として立ちはだかり、やがて克服されて行く。
    今は昔のようにアメリカ=民主主義の国、等と単純に考えてはいないが、回帰すべき場所としてそれはある(と信じられている)だけ、日本とは異なるのだろうとは思う。そして考える。普遍的感動に導く同作品は日本でも好んで鑑賞・観劇されるが、しかし果たして民主主義は本当に信じられているのか、と。そうして頭を抱えてしまう。

    ネタバレBOX

    男バージョンを観て両者を比較すると面白かったろうが、考えてみれば本作の陪審員全て男なのであったと改めて気づき、女性性と脚本の遭遇の光景をしかと見せて頂いた。
    「ら抜きの殺意」には女性同士では女言葉が出ない(女言葉は男性(社会)が女性に要求するもの)という発見を語るくだりがあった。「女性だけ」の空間で、ならではの空気、言動(というか態度)が見られたが、無罪が多数派になり最後に粘る男、もとい女が「どう折れるか」という見せ場で、男女の差異について感じる所あり。
    男として描写するなら、息子に歯向かわれ(押さえつけられず逆に殴られた)、去られた傷を抱えた男は容疑者に自分の息子を重ね、厳しく遇する事で傷ついた心を癒そうとする様子が窺える。この「傷」のあり方に男女の差は確実にありそうだ。女は男勝りに一人息子を育て、そして父親代わりの存在だったからこそ息子の反抗の対象となった、とするとそこには彼女が女性に、そして母親になれなかった何らかの要因が彼女の内部にあり、彼女自身をも苦しめている、といった背景が想像されたりもする。そして彼女が「折れた」時、(男が我に返って事実と向き合い、世間体やプライドを剥ぎ取られて等身大の自分に戻ったように)、女も自分自身についての事実と向き合わざるを得なくなる。恐らくは泣き崩れるのだろうと思うがそこまでやると台詞も変りそうだ。戯曲は最も変化を拒む人物が変化を遂げる(自分自身に戻る)感動を用意したが、女性バージョンは一つその課題を残したように思う。
    (このレベルゆえのリクエスト、収穫は十分あった)

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    2021/04/10 03:05

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