おくすり、ひとつ 公演情報 法政大学Ⅰ部演劇研究会「おくすり、ひとつ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    これも観ていたのを失念していた。
    恐らく録画ではない動画配信(ライブ)と思われるが、リモートを活用した作り。人物は画像に映り込むという登場の仕方である。つまり空間としてのステージはない。
    現世とあの世の挟間のような場があって、そこに住まう人と訪れる人がいる、という舞台設定なので、劇場スペースがむしろ不要で「映像向き」。いや映像配信ありきで作った話かも知れない。
    もっともテキストは演劇寄り、と見えてしまうのはライブならではのひずみ、間、未完成感が勝っているからか(映像として仕上げるならもっと編集のしようがある)。
    場面の大半は「先生」と呼ばれる存在(AIだったか)の前で、訪問者がそこに来るに至った経緯を語る、告白および回想。
    前半に登場する男女(一応相思相愛らしいカップル)の、煮え切らない、踏み込まない会話が続く時間は耳がつらかったが、場面が変わると徐々にドラマ世界が開けて見えてきた。
    近未来。「消えてなくなくなりたい」、と心に思っただけで存在が消失する怪現象(病)が散発する。最近のニュースでその病に効く特効薬が開発されたと報じられるが、「生きたいと本人が願わなければ薬の効き目はない・・」といった解説がある。次元の狭間には「先生」(声は女性)が居るが、そこに主人公である青年がやって来る。やって来る、と言っても目が醒めたらこの場所に居た、が正しい表現。この青年はここに暫くとどまる事ができる珍しいケースだと言われる。普通は「消えた」直後にこの場所に来て、「先生」に経緯を話した後、服薬を勧められ、生き直そうと思わなければすぐに消えて(死んで)しまう。
    かくして物語の舞台設定は整ったが、青年が観察する「死にゆく者」のケースは1組の男女のみで、もう一つのエピソード(女2人)は実は種明かし的サブストーリーとなり、さらにもう一つのタイムリープ的な仕掛けがオチに据えられている。
    最初に登場して儚く死んで行く男、その後を追う(「消えたい」と思ってしまう)女のもどかしい関係性は、優しさが持つ「嘘」を巡る自家撞着。男が「消えたい」と思うきっかけは、「好き」だったはずの相手が「気遣う存在」になった、要は好きでなくなったからに違いなく、「終わり」なのは恋愛なのであって人生ではないと、認めないのは利己的になれないからで、人間の真実から目を背け、綺麗ごとで飾って人生を終えたいなら勝手に終えるがいい・・等とイライラしながら会話を聞く事になるが、利己的に生きるよすが=己自身が希薄であるのだとしたら、とふと思う。若者の根源的自信を喪失させる社会の深刻さはこういう場面に表れてもいるのだろうか・・と。(自信満々に見えるのは一部の○○な連中だけ。)
    二つ目のエピソードはアイドルを目指す女子とその旧友で臨床心理士を目指す女子の関係。アイドル女子は上京して所属した事務所で壁にぶつかる。ただしその壁は「自分」という存在の核が無い、というもので、それは対人関係の中で気づかされるという順序を取り、抜け道を失う・・。これはわが事として見てもよく分かった。旧友の存在が救いにならなかったのもむべなるかな。「己の核」は社会的認知によって形成されるもので、早くは家庭で、あるいは家族があやふやでも地域で、学校で、友人関係で、最終的には職場で、作られる契機がある、と考えられてきたが、今はそのどれもが「核」たる保証を与える資格を返上し、現実世界での孤立を掬うのは「大きな物語」としての国家だけ、というのも現代的風景だ。専らSNS、ネットといったバーチャルで記号的な繋がりに比重が移っている現状もありそうだが、これに依拠したがために起きたと見える秋葉原事件が思い出される。

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    2020/08/04 02:00

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