満足度★★★★
鑑賞日2020/02/12 (水) 20:00
座席E列5番
評価というのは難しいな。作品全体として観て、なるほど!やったね!すばらしい!と、十分に唸らせてくれる作品に出合うと、多少のことは目をつぶってでも★5つ、ということになる。しかし、そうして評価した作品と比べて、あらゆる面で評価は上回るにもかかわらず、どうしても1点これはダメかな、と思う点があると減点せざるおえない。
この作品、役者、演出、美術、装置、音楽等々、他の方々の評を待つまでもなく、十分に唸らせてくれる。躍動と抑制、破格と均衡、追求と放埓、陰影と炎熱、とにかく人間の内面劇にも拘らず、舞台は大きくうねる。とても良い。
ただ、足りないのは主役である。
この物語の屋台骨は「葛飾北斎」である。娘の栄の物語ではあるが、その栄を描くには、まずは北斎がいかなる人物であり、彼女に何を与えたのかが
描かれねばならない。今回の酒向芳をして、この屋台骨は堅牢でしたたかで、傍若無人で押しが強くて申し分ない。
周辺の絵師、花魁を含めた廓の人々、商人、市井の人々、演じる役者は中堅若手から男女まで芸達者で見誤ることなき強固な脇だ。
さて、そこで主人公栄の演技である。もう何をやっても良い立ち位置で、栄の激情と内省をとことんまで突き詰めてよいはずなのだけれど、この舞台の栄はただの町の小娘に過ぎない。女として蔑まされることへの忍従、内から湧き出てくる抗えない意欲、盲目になり周りを振り回す激情、何かに憑かれたような猛進、もっともっとというような何かが表現されていない。それを演ずる舞台が整っているだけに、もったいない。役者としてこんな機会は滅多にないのに。役者が抑えてのか、演出が抑えたのか。そもそもそれを演じ切るだけの力量が主役になかったのか。
石村みかがあと10歳若ければ演じきったろうと思われる役(否、もちろん今でもよいのだけれど)、ああ、ああもったいない舞台だなあ。
そう、観たかったのは、フライヤーに描かれた神々しいまでに狂った栄なのに。