満足度★★★★
友人が「久しぶりに新劇らしい新劇を見た」と言っていた。私にとっても「新劇」についていろいろ考えさせられる舞台だった。広島の原爆がその後の被爆者の人生にもたらした数々の悲劇、とくに子供に奇形児が生まれる不安、差別が主題である。それを今日改めて芝居で見て感動を得られることは、残念ながら私にはなかった。
井上ひさし「父と暮せば」は、被爆者のサバイバーズギルト(「生き残ってしまって申し訳にゃあ症候群」)を打ち破り、自ら幸せをつかもうと前向きに生きていくところに感動があった。「泰山木…」の場合、被爆がもたらす不安から抜け出すのではなく、登場人物はそれを抱えて生きている。こういう姿勢が、自分の問題としては響いてこなかった。
かつては被爆者の苦しみを、国民全体の苦しみと共感する同時代体験が日本人にあったのだろう。時代が変わった。あるいは世代は変わった。私の見た昼の回でも高齢者の多い客席からは、すすり泣きが漏れていたので、こういう問題をわが事と感じる世代が確かにいるのだと思う。
私が「新劇」について考えさせられたというのは、まず、戯曲のセリフ。冒頭から「ここだ、ここだ、泰山木の下の古ぼけた一軒家。神部ハナ、と表札にある」と、木下刑事が一人で、状況を説明するところ。誰に聞かせているのか、というと観客に聴かせるセリフだからだ。ハナのセリフも、必要以上に情報量が多い。(おしゃべり、という性格も示しているが)セリフですべてわかるように書いてある。観客の想像力にゆだねる「余白」がない、あるいは少ない。
これがかつては日本の現代演劇の当たり前だった。俳優の演技も、ゆっくりと明瞭にセリフを聴かせることに重点を置いている。ここを壊すところから、唐十郎も、つかこうへいも、野田秀樹も、永井愛も始まったのだとわかる。
場面転換も、小島のハナの家、本土に渡る船の上、町の警察署の取調室、刑事の馴染みの女の部屋、ハナの病室と、きちんとそれらしいセットを交換する。今なら、ほとんど何もない舞台で、場面の背景は観客の想像力にゆだねるのが主流であるが、それとは違う。8場~9場という構成の数、転換のテンポをみると、そういう演劇スタイルに合わせて戯曲が書かれている事がわかる。
でも、狂言や歌舞伎がないと、そうした「旧劇」と「新劇」は何が違ったのかわからなくなるように、オーソドックスな「新劇」も、現代演劇が何をめざしたのかがわかるために、こうした現代の古典の上演を絶やしてはいけないと思う。
2時間35分(前半1時間25分、休憩20分、後半50分)