Last Song 公演情報 シアターX(カイ)「Last Song」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

     日本では寺山 修司が愛し、多くの場面で言及したロートレアモン。

    ネタバレBOX

     そのロートレアモンをやると聞いていたので、是非とも観たいと予約を入れていたのだが、上演された作品は、作品を観る前に殆ど当パンなど解説を読まないことをポリシーにしている自分が想像していた有名な「Les Chants de Maldoror」ではなく、「Last Song」という作品で、ウルグアイのモンテビデオで1846年に生まれ24歳でパリの安宿で亡くなったロートレアモン伯爵として知られるイジドールデュカスの最後の作品、拝見した内容から想像した通りイジドールデュカスの死の直前・数時間を描いた作品だった。アントナンアルトー演劇を追及してきたこの劇団が何故ロートレアモン作品を上演することになったのかは、当のアルトーに理由がある。というのもアルトーはロートレアモン(=イジドールデュカス作品がお気に入りでアンドレ・ブルトン等最初にロートレアモンを評価した人々と同時期に彼を高く評価し文章をものしていたのだ)謂わばロートレアモンという極めて特異な才能に、ボードレールが己の鏡としてポーを見出したように、己の映し鏡として共鳴したのであろう。何れにせよ、グルソムヘテン劇団はそのアルトー演劇論を真っ当に継承している劇団と聞くからロートレアモン、アルトーの本流を汲む芸術家魂の直接の継承者と言っていいのかも知れない。上演形態はフィジカル主体で科白は非常に少なく、字幕も出るのでノルウェーの劇団だからと心配するには及ばない。但し、日本文化というのは、一般に節操が無い分、外国の様々なもの・ことを受け入れるのも表層しか見ないからできるのであり、実際何と格闘しているのか、何故、そのような表現形式を選び、そのような表現をする必然性があったのかについて考えようとも観ようともしない人が多いのだが、それでは今作の重要な部分は見えてこない。例えば開演前、ほの暗い劇場空間でも天井から吊るされた梟らしき鳥の飛翔する姿は誰の目にも明らかなのに、鳥の形態模写をする演者が現れた当にその時、剥製は暁闇ような闇に紛れてほぼ見えなくなるのは何故か? 現れた演者の何故か飛翔することにコンプレックスでもあるような、ぶきっちょな飛び方の意味する所は何か? その後、別の演者が現れ、反復するような動作が続けられる中で、オルガンは明らかに弾かれているのに音が出ないことには、どんな意味が込められているのか? 第3の演者が登場し机や椅子を用いる時、演者の身体が恰も宙吊り状態というシーンが繰り返されることには、人間存在の如何なる相が表現されているのか? また彼女が体を机に投げ出すようなぶつけるような仕草を繰り返すのは、何を意味するのか? といったことである。無論、自分は自分自身の解釈をしているが、先ずは、このような点にも留意して観劇してみて欲しい。第3の演者は他にも大変大切な演技をするが、ここでは伏せておく。

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    2019/11/22 07:51

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