じゅうごの春 公演情報 やみ・あがりシアター「じゅうごの春」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2019/10/17 (木) 14:00

    そこで観たのは「どこにでもある日常」。
    極めて緻密かつ精密な、技巧に富んだ超怪作。
    衝撃の結末をどう読み取るか。
    以下、ネタバレBOXにて。

    ネタバレBOX

    初めての観劇をどれにするかで迷っていた時に、最後の最後まで候補に挙がっていたのが
    やみ・あがりシアターさんの『サンカイ』。
    結局、この時は行けずじまいだったが、それ以来、気にはなっていた劇団で、今回、ようやく
    観劇をさせて頂くこととなった。

    同劇団のコンセプトは、

    「ヒトのやんでるところとあがってるところを両方、病気が治ったばかりのようなハイテンションでお届けしたい」

    ということらしい。

    本作『じゅうごの春』の告知文は、

    中学三年生のじゅうご君は、夏休みの宿題が終わらないまま秋を迎えています。
    彼にやってくるのは、どんな春なんでしょう。

    🍉🍉🍉夏休み延長戦🍉🍉🍉
    🔫🔫🔫自由研究乱射🔫🔫🔫

    である。

    正直よくわからない。
    フライヤーのデザインも素敵だとは思ったが、告知文と合わせても、演劇の内容は
    窺い知れない。

    ただ、ピンクとグレーの対比、表情の見えない男子学生、咲き乱れる桜のごとき
    膨大な量の研究ノート、そして、舞い落ちていくノートに残る弾痕。

    底抜けにハッピーな話ではないだろうとは思っていた。
    ただ、それでも、そこまでハードな話ではあるまい、とも思っていた。

    結果から言えば、本作品は非常に重い。
    これまでに見た演劇はもちろん、映画等の映像作品を含めても、最大級と言って良い。
    私の中では、これまで映画の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が最大重量だったが、
    見事というべきかなんというべきか、現在は、本作が文句なしの一位である。

    重さもさることながら、私のように頭の悪い人間にとっては、非常に難解な演劇だった。
    時系列は行き来し、現実と虚構も入り混じる。
    登場人物の心理や行動原理も読み取りづらく、率直に言えば、終演直後はただただ
    衝撃が残り、話の全容を理解しきれなかった。

    台本を何度も読み返し、こうして、感想を綴っていく中で、ようやく、ある程度は
    見えてきたように思うが、それでも、まだ、解釈に戸惑っている部分もある。

    しかしながら、全容が見えていないとはいえ、私なりに解釈が落ち着いてくると、
    本作の設定の緻密さ、周到さに戦慄する。

    非常に想像力を必要とした本作だが、その観客の想像力すら手玉に取られたような
    そんな印象すらある。

    振り返ってみると本作を構成する約100分に散りばめられたあらゆる描写に、無駄なものは
    一切なく、全てがどこかに繋がっているように思われる。
    私は今の時点では、全ての繋がりを把握できてはいないが、全てを把握できた時、
    一つの壮大な絵が完成するように感じている。

    今、私は必死である。
    この演劇が一体どんな絵となって完結するのかを見てみたい。

    私は基本的に映画であれ小説であれ、考えるということをあまりしない。
    例えば推理小説であれば、探偵より先に犯人を見つけてやろうなどとは全く思わない。
    読み進めていけば、犯人は捕まると分かっているので、それをただ眺めて、
    「わー、すげー」
    と思って終わりである。
    意味の分からない描写をいちいち掘り下げることは滅多になく、分からなければ、
    そのまま読み進めてしまう。

    しかしながら、本作に関して言えば、私は必死になって考えた。
    考えなくてはいけなかったからだ。

    盛っているわけではなく、とある作品について、これほど真剣に、かつ必死に
    なって考えたことなど、生涯通じて一度もない。

    本作は冒頭からかなりのハイテンションで進む。
    序盤から中盤にかけて、遅々として進まない自由研究の描写が続き、私にとっては
    無駄にしか思えない拘りを貫くじゅうごをイライラした気持ちで見つめていた。

    ところが、中盤、谷中家は実は4人兄妹ではなく、2人姉弟であると私が気づいてから
    本作は、それまでのコメディ調から一転、重苦しいムードを醸し出し始める。
    単調とも思えた序盤の鬱憤を晴らすように目まぐるしく展開していく中盤以降。

    少しずつ壊れていく物語。
    しかし、終盤、それは、また少しずつ修復を遂げていき、新たな春を予感させたところで、
    響くあの銃声。

    倒れこむ鴻池、まき散らされるノート、飛び散る麦茶。

    あの飛び散る麦茶は、今でも私の中に鮮明に残っているし、その飛び散る様子は、
    さながらスローモーションのようにも思えた。

    映画でもドラマでもない。
    編集不可能な、生の演劇である。
    にも関わらず、私の目にはスローモーションに映った。

    ありとあらゆる映像作品(演劇も含む)で、最も印象に残っているシーンは何かと
    問われれば、今の私は躊躇することなく、このシーンを選ぶ。
    そのぐらい衝撃的なシーンだった。

    私は当然、その後があると思った。
    まさか、ここで終わることは無いだろう、と。

    思いつつ、どこか、嫌な予感もよぎる。

    そして、集まってくる役者様たち。
    カーテンコール。
    終演。

    いつもは先陣を切るように拍手をする私だが、今回は一瞬、拍手をすべきか迷った。
    半ば強制されるような思いで拍手をしながら、その音で現実に少しずつ帰ってくる。

    この物語は一体何だったのか。
    あの最後のシーンは一体何だったのか。

    私は基本的には、こうしたフィクションについては、作り手の意向を汲み取り、それを
    曲解することなく、素直に受け入れることをよしとしている。
    だから、作り手の思いというものを、どんな作品であれ、知りたいと思うし、本作についても
    同様である。

    しかしながら、本作に限って言えば、それよりもまず、私自身の解釈を明確にしたいと
    思った。

    だから、私はあのシーンについて今の時点では明確には表現しない。
    引き金はひかれた。銃声も響いた。
    その結果については言葉にしない。
    あの麦茶が、さながら別のモノのように見えて、それを示唆するために用意されて
    いたのだとしても。

    誤解のないように言っておくと、私は本作の結末に不満を持っているわけではない。
    あのシーンは観たモノが全てで、それ以上でもそれ以下でもないと、言われたとしても、
    それはそれで受け入れることはできる。

    ただ、もっと考えたい。
    放たれた弾丸が最後に何をもたらしたのかを、もっともっと考えたい。
    観たままで終わりにしてしまっては、絶対にいけない。
    私はそう思ったのである。

    観劇後、数日しか経ていない今では、まだまだ、頭の中で整理しきれていない部分が
    あまりにも多い。

    そんなわけで、ここからは、私の整理も含めて、各登場人物と、その演じ手の皆様を絡めて、
    物語全体を振り返り。

    ◎じゅうご(石村奈緒さん)
    ◎にじゅうご(林廉さん)

    台本上は、こうした括りになっているが、当然、同一人物。
    15歳か25歳かの違いだが、彼はこの10年間、精神的には全くと言ってよいほど成長していない。

    率直に言って、私はじゅうご、にじゅうごについては、見ていて非常にイライラする。

    一度、ペースを崩すと、そこから立て直すことが出来ない。
    自身の不甲斐なさを自覚していながら、それを素直に受け入れられず、
    「俺は最強だ!」
    と嘯く。

    大和、佐川という得難い友人、愛情深い父や姉を持っていながら、それに感謝することもなく、
    そばにいるのが当然のように、当たり散らす姿は、舞台に上がって、殴り飛ばしてやりたい
    衝動にも駆られる。

    谷中じゅうごという男のことを、どうにも、理解できないまま、終演を迎えてしまった。
    本作を解釈するにあたっては、まず、彼という人物を理解できないことには始まらないのだが、
    劇場から帰る電車の中で、台本を読んでみても、やはり、よくわからなかった。

    その翌日、会社で仕事をしている時、
    「順調なときは良いけど、一度、乱れると立て直すの結構苦手だなー」
    などと泡を吹きながら仕事をしている時、はっとした。

    同族嫌悪。

    私がじゅうご、にじゅうごを好きになれないのは、まさに、これだ。
    奇しくも私は世代的にはよんじゅうごである(注:早生まれなのでまだ五にはなってない)。
    私の30年前、20年前を振り返ってみると、彼と重なる部分は、少なからずある。

    じゅうごとにじゅうごは10年も経過しているのに、変わらなすぎだろ、と観劇中は思いもしたが、
    リアルに照らし合わせてみると、それは全く不思議なことではない。
    私自身、15歳から数えれば30年経過している今、変わった部分ももちろんあるが、変わっていない部分と
    いうのもある。

    そう思うと、この物語は、一気に現実味を帯びてきて、背筋が寒くなってくる。

    かつての自分と重ねるようになって、じゅうごの気持ちというものが、身近になった。
    ただ、入り口に立っただけで、まだ、中には入れていない。
    何かをきっかけに、私は彼をもっと身近に感じられるような気がする。
    そうなったとき、この物語の本質が、もう少し見えてくる気はするが、今はここまで。

    私は彼ほど、激情家でもないし、根性があるわけでもない。
    ついでに言えば、引きこもりになったこともない。

    そのおかげでというべきか、こうして、平々凡々と暮らしているのだが、一方で、じゅうごに
    対して、半ば不承不承ではあるが、彼に対して畏敬の念もないわけではない。

    事情どうあれ10年間も自由研究を続けるなんて、よほどの精神力だと思うし、引きこもるというのは、
    ある意味で、非常に勇気のいることだ。

    それだけの大きな武器を持っていることを、彼が自覚することが出来れば、それこそ、最強なんだ
    と思うけど、自分がこのくらいの年齢の時に、そんなこと、自覚は出来なかったよなぁ。

    そうした忸怩たる思いが、またリアルを醸し出す。
    ここでも何だか主宰の笠浦さんに手玉に取られているような感じがしてしまう。
    考えすぎなのかもしれないけれど。

    じゅうごという男、そして本作を理解するにあたってキーワードとなるのは、
    「最強」
    「世界一のくず」
    「ジャンプ」
    「間違い」
    「自由」
    「卵が先か鶏が先か」
    なのだろうと思う。

    「最強」という言葉は、彼自身が本来認識している自身の属性「世界一のくず」に対しての
    虚勢であろうと思う。
    半面、矛盾してはいるのだが、彼は同時に自分自身を「最強」と考えている節もある。
    ただ、彼がどのタイミングで、そうしたコンプレックスを抱くようになったのかはいまいち
    よくわからない。

    先天的にそうしたものを抱いていたのか、あるいはゴランこと青木との出会いによる
    ものなのか。
    それについては、まだまだ考える余地があるものの、「最強」を自認する彼を、
    「結果として」青木は否定する。

    じゅうごと青木の終わらない闘争はここから始まる。
    当の青木には、これは「闘争」でも何でもなかっただろうけれど。

    青木については、また別途書くとして、その他にも、15歳のじゅうごは、彼の人生において
    大きな転換点となるきっかけがいくつもあった。

    その一つ一つはごく些細なことであったけれど、そういうものが、人生の歯車を大きく
    動かしてしまう事は珍しくない。

    彼もまた、そうした経験をした一人。
    彼という存在を私がはっきりと理解できたとき、彼のよんじゅうご、そして、ごじゅうごが
    希望に満ちてはいないまでも、せめて月の明かりくらいは感じられるような人生を歩んで
    いてほしいとは同族としては、願うばかり。

    嫌悪感がある反面、愛すべき存在でもあるのが、私にとってのじゅうごであり、にじゅうごであり、
    そして、さんじゅうご以降の彼なのである。

    さて彼ら、というか彼を演じたのは、石村さんと林さんだが、ある一人の人物を、全く別の人物が、
    何の違和感も感じさせず、それを演じきったというのは、ものすごいことだと思う。

    役作りに当たっては、お二人で色々と悩んだり、壁に当たった部分もあるのでは?と想像したりもする。
    演じるうえで、メンタルやられる部分もきっとあるんだろうなぁ。
    そして、きっと一つの公演で消費する体力も精神力も膨大なものであったと思う。

    さっくりとご挨拶させて頂いたが、お二人とも大変、お疲れさまでした。

    ◎さんじゅうご(稲波聖大さん)

    恐らくはジャンプを買わなくなったころから、じゅうごは外面、内面共に大きくその姿を
    変えていく。

    感情をむき出しにして生きてきた彼は、35歳にして、その攻撃性は鳴りを潜め、どこか
    余裕すら感じるように見える。

    「ジャンプ」に対しての、じゅうごの認識はその年代ごとに異なる。
    15の時には「くだらない」存在であったが、25の時には没頭する存在になり、そして、
    再び「無駄」な存在へと変わっていく。
    そして10年後、もはやその存在は過去のものとなり、無駄であるという認識に変わりはないものの、
    自宅という極めて狭い世界の中に暮らす彼にとっては、カレンダーとしての価値はあったの
    かもしれないと考えているように見える。

    ジャンプ、すなわち少年ジャンプが象徴するものは何だろう。
    構成される漫画群はヒーロー色の強いものが多い気がする。

    「最強」を目指すじゅうごにとって、恐らく、どの年代の彼にとっても、バイブル的な存在
    ではなかったか。
    けれど、それを安易には受け入れられない、彼自身の年代ごとの思い、もう少し突っ込めば
    プライドがあったように感じる。

    彼がジャンプを捨てたのは、彼がついに到達した「あきらめ」であったようにも思う。
    ゴランこと青木からの解放を夢見て、不断の努力を重ねてきたにもかかわらず、あろうことか数少ない
    理解者である姉と結婚、つまりは切っても切れない親族になってしまう。

    彼にとって、まさしく半生をかけてきた戦いに終わりがないと気づいた時の、彼の心中を思うと
    絶句する。

    姉の結婚以降の、彼の自由研究は、もはや解放のためではなくなってしまったのだと思う。

    新しい世界へ踏み出す恐怖もあったろう。
    10年という長い時間をかけてきた、彼自身の戦いを不毛にしたくない思いもあったろう。

    そんな終わらない自由研究に終止符を打ってくれるかもしれないと、彼自身も認識し始めていた
    鴻池に彼は引き金を引く。

    観劇からこの感想を書くに至るまで、私は彼が引き金を引いた気持ちが分からなかったが、
    さんじゅうごの振り返りを書いていて、ようやく分かってしまったような気がする。

    「間違い」が呼んだ「間違い」。
    間違いとすら呼べないような、ありきたりな出来事。
    「偶然」が呼んだ「偶然」という方が正しいのかもしれない。
    回避のしようもない事だったのかもしれない。
    そもそも、恐らくは誰一人間違ってなどいない。

    現実には十分に起こりうることだし、たぶん、今この瞬間も、世界のどこかできっと
    起きている。

    引き金を引いた後、彼は必死に、間違いの理由を探す。
    私が、その理由を探したのと同じように。

    でも、多分、理由なんてない。
    「そういうもの」なのかもしれない。

    さて、さんじゅうごを演じておられた稲波さん。
    終演後、ご挨拶させて頂いた時、
    「1時間くらいすれば、あぁ、そういうことかってつながってくると思う」
    という主旨のお言葉を頂いたが、いやー、全然、ダメでした(笑)。
    数日たった今でも、だいぶ怪しいです。
    頭悪くてすいません。

    ◎五郎(岡崎貴宏さん)

    現実と虚構が入り乱れる本作にあって、彼の観察日記が、本当の現実を拾い上げる
    材料になるわけだけど、20年という長きにわたって、観察日記を続けてきた父親の
    愛情に、もう涙せずにはいられない。

    私には子供がいないので、父親の気持ちというのは、正直よくわからない。
    ただ、父親と同じ世代にたどりつき、社会での立ち位置というものを共有できる
    立場になってみて、朧気ながら見えてきたものは数多くある。

    五郎という父親は、子供たちに決して強制しない。
    それは彼が父親として弱いということではなく、彼の深い愛情ゆえであることは、
    彼の8/1の観察日記を読めばよく分かる。

    この8/1の日記は、名文中の名文である。
    観劇中、私は本作を理解しきれていなかったので、全編通じて、思わず涙する気配は少なかったが、
    この日記が鴻池によって読まれたときだけは、泣きそうになった。

    最後の一文、

    「谷中じゅうご。15歳。次の春には高校生になる」

    この部分のパンチ力が凄まじい。もう無理。書いているだけで泣いちゃう。

    ただ、悲しいかな、この手の愛情というのは、なかなか、伝わりにくい。
    特にそれが、子供の世代であればなおさらだ。

    私自身、父から受けた愛情の大きさは、今にしてようやく分かる。
    谷中じゅうごという男が、私に少なからず似ているものだと思えば、恐らくは
    彼が父親の愛を実感したのは、鴻池がこの日記を読んだこの時が初めてではなかったか。

    息子の引きこもりの一因たる青木が親族になると分かったとき、五郎の胸中はいかなるものであったろうか。

    観劇当時、五郎が一美の結婚に驚くシーンは私には少し意外だった。
    「え?お父さんも先生嫌いなの??」
    と。

    だが、今にして思えば、青木がどうこうよりも、息子に与える影響を心配したのだと思う。

    だが、娘の結婚に反対するわけもいかない。
    彼が「大事なのはこれからのこと」と言ったのは、彼自身に向けての言葉でもあったのだろうと思う。

    岡崎さんには残念ながらご挨拶は叶わなかったが、子を思う愛情深い父親を、とても柔らかく
    演じておられたように感じた。

    リトルマーメイドのポイントカードを、何だかんだでひっそりと納めてしまうシーン大好きでした(笑)
    そして、たった今、リトルマーメイドというパン屋さんが実在すると知って、軽い衝撃を受けているワタクシ。

    ◎一美(加藤睦望さん)
    ◎ユウ(依田玲奈さん)

    序盤からスゴいテンションで登場する二人。
    私が暮らす地元は田舎なので、ガングロ文化が流入してくることはなかった、、、気がするが、
    そういや、ああいうの流行ってた時期あったなぁと思いながら観ていた。

    10年経ってもユウの本質が変わらないのに対して、一美の方はと言えば、その家庭環境ゆえか、大きな変化を感じる。
    この辺の対比のしかたが面白かった。

    かつては弟のゲームボーイを破壊したり、非常用リュックをくすねるなど、暴虐非道の限りを尽くしていた姉も、
    その当時から、弟に対して、家族としての愛情は注いでいたことは垣間見える。

    この「ゲームボーイの破壊」が銃を手にするきっかけになったことから、のちのち一美にとって
    重荷となってのしかかることになるが、破壊のきっかけになった言葉を放ったのは、じゅうごだし、
    言葉を放つきっかけになったのは、一美が非常用リュックをくすねたから、、、と遡っていくときりがない。

    劇中の時系列だけでは、何が本当のきっかけかは判断できない。
    奇しくも彼女の弟が言うように
    「卵が先か鶏が先か」
    と言う話になってくる。

    ただ事情どうあれ、一美の10年と言うのは重かったろう。
    青木は結局、殺されなかったとは言え、計画の立案を促進するきっかけを与えてしまった重み。

    10年後の一美とユウの再会、ユウが生き生きとしているのに対して、一美はどこかやつれた印象を
    受けたのは考えすぎか。

    弟の抱く殺意は一美にとっても、少なからず共感できるものであったろう。

    にも関わらず、自身の精神状態や、年齢等の要因で、青木と結婚するに至る経緯は実にリアルだ。

    にじゅうごには理解できないだろうが、こうした結婚の例は、世の中至る所に転がっている。
    意外に統計を取ってみれば、そう言う結婚の方があるいは多いのかもしれない。

    「姉ちゃん、間違えちゃった」
    「ごめんね、ばいばい」

    この台詞、言葉以上の重みがある。

    一方のユウもまた、彼女なりの思いがあるように感じた。
    保険業界と言えば、リーマンショックの際に相応の打撃を受けた業界だ。
    誰もが保険からの離脱を検討する時勢に、笑顔を振りまき営業に奔走するストレスは相当なものだろう。
    そんな中で、未だに自由研究の呪縛から逃れられないニートの存在というのは、許しがたい存在に見えたのかもしれない。
    彼女の怒号と、

    「みんな。みんな仕事してる」

    と言う言葉は、彼女の本心であるが故に、にじゅうごの心には深く刺さってしまったろうと思う。

    そんな二人を演じたお二人。
    17歳と27歳の演じわけが圧巻だった。
    体当たりの演技と表現するのは簡単だが、そう言う次元を超えていたように思う。

    ご挨拶が叶わなかった依田さんは事前にTwitterでお姿を拝見していたので、正直、27歳のユウとして
    登場するまで、分からなかった。演じ分けが半端ない。全然違う。違いすぎる!

    加藤さんはちょこっとご挨拶させて頂けた。
    劇中でもっとも振り幅が大きい役で、ご苦労もあったかと思われるが、デリヘル嬢として現れた
    西野に金を渡すやり取りは、尋常ではない緊張感を伴い、素晴らしかった。
    加藤さんの演じ分けも、そりゃ、すごかった。

    「台本に載ってないだけで、実は女子高生二人は、他の役者が演じてました」

    と言われても、全然、普通に納得する。
    お二人ともそのくらいお見事でした。ほんとにすごい。

    ◎大和(小池琢也さん)
    ◎佐川(東象太朗さん)

    姉に破壊されたゲームボーイの変わりに自身の宝物を差し出し、一緒に自由研究を考え、
    不登校期も彼にプリントやノートを渡してやる。

    じゅうごにとっては、欠くべからざる友人二人だが、じゅうご、そして、恐らくは
    にじゅうごにとっても、そう言う自覚はなかったろう。

    じゅうごにしてみれば、彼ら二人の友情は、当たり前のものであり、それがいかに貴重で
    ありがたいものかは自覚できていなかったように感じる。

    ともすれば、彼にとっては役立たずであるどころか、ほのかに恋心を抱いていた西野を
    奪った憎い存在ですらあったかもしれない。

    そう言う空気を感じながらも、彼らはじゅうごを友人として思い、陰に日向に、じゅうごを
    支えようとする。

    西野と佐川が付き合っていた事実を知ったじゅうごが大和に八つ当たりし、
    大和が激高するシーンは、全編通じてとても印象に残っている。

    大和の怒号は私の気持ち1ミリたりとも違わずに代弁した。
    彼の怒号は間違いなくじゅうごに響いたであろう。
    だからこそ、彼は、またしても「俺は最強だ」と声を上げる。
    この期に及んでも、じゅうごは恐らく、大和たちの存在の重さを認識できなかったと思う。
    彼にしてみれば、脇腹を突かれた思いであったろうし、そんな大和を恨みもしたような気がする。

    大和と比べると佐川は、じゅうごとは少し距離を置いていたように感じる。
    いつまでも自由研究を続けるじゅうごに、見切りを付け始めた部分もあったのではないか。

    いずれにしても、じゅうごには勿体ないような、優しい二人。
    彼らの貴重さを理解できるのは、恐らくはさんじゅうご以降であろう。
    そう思うと、彼らのじゅうごを思う気持ちが何とも切なく思えてくる。

    二人を演じられた小池さん、東さん。
    15歳時のすごいテンションは、観ていて何だか清々しさすら感じました。
    上でも書いたじゅうごに対して怒号を浴びせるシーンは圧巻。
    25歳時の同窓会シーンも、10年という長きにわたって、抱えてきた重苦しい思いが感じられて、
    観ているこちらも重くなりました。

    東さんには少しご挨拶できたが、小池さんは帰り際のご挨拶のみ。
    けれど、笑顔がとても眩しかったです。

    ◎西野(川口知夏さん)

    強烈な個性を伴う西野。
    親はヤクザもの、頭は良いが成績は悪く、素行も一般常識からすると大きく逸脱する彼女は、
    校内においては、教師からは面倒がられ、異性の同級生からは安い女と見なされる。

    自身がそうした扱いを受けることに対して、彼女がどの程度のストレスを感じていたかは、劇中では語られない。

    彼女の言葉を額面通りに受け取るのであれば、余り気にしている様子はないが、自分に関わろうとしない
    教師陣の中で、見守る姿勢を崩さない青木を「貴重」と評するところに、彼女のこれまでの人生の負の部分を
    垣間見てしまうし、同世代のじゅうごと比較して圧倒的に成熟している。

    じゅうごが青木の射殺に成功する虚構の世界で、西野はデリヘル嬢として登場する。
    少なくとも青木の殺害については無罪の父親が投獄され、自身はデリヘル嬢として生計を立てる。

    決して見放すことのなかった青木を殺害した上、自身はまんまと逃げおおせ、働くこともなく、
    大学院にまで進んでいるにじゅうごに対して、好印象など持つはずもなく、「チェンジ」と言う辛辣な
    表現で、彼を糾弾する。

    そして放った、

    「お前なんか死んじゃえ」

    と言う言葉。

    激しい感情を表に出すことのない西野にとっては、最大限の怒りであったろう。

    去り際の、

    「また来ます」

    と言う台詞。

    この一連のやり取りは、非常に印象に残っている。
    一言で言うならば、とにかく恐ろしいシーンだった。

    西野というキャラは、台本上での印象と、舞台上での印象が大きく異なる。

    台本だけで西野というキャラを追ってみても、さほどの個性を感じないが、舞台の上での西野は、
    強烈な個性を放っている。

    演じられたのは川口さんだが、ご本人がTwitterでも触れられたように「難しい役」だったと思う。

    台詞では表現されない、西野というキャラの悲哀をいかにして再現するかについては、相当な
    試行錯誤があったように思われる。

    結果として舞台の上に現れた西野は、台本以上に西野であったのではなかろうか。
    台本に命が吹き込まれると言うものを目の当たりにしたような気がする。

    熱演と言うよりは怪演と言うべきか。
    川口さん出演の演劇を拝見するのは、今回が二回目だが、前回と、今回とでは印象がまるで違った。
    素晴らしかったです。

    今回、初めてご挨拶をさせて頂いた。
    終演後の真っ白な状態に加えて、あの衝撃のラストだったので、もう放心状態だったが、気力を振るってご挨拶。
    何言ってるのか自分でもさっぱりでした。
    何だか色々スイマセン。
    でも、ご挨拶できて良かったです。

    ◎先生(山田太郎さん)

    青木という男は、劇中でまさに蛇蝎のごとく忌み嫌われる。
    私にしてみれば、青木という男は、まぁ、色々とどうかなと思うところもあるけれど、教師として、
    というよりは、人間として一定以上の魅力を備えているように見える。

    彼はどこか超越している。
    その言葉は高潔で美しく、立ち居振る舞いもどこか爽やかだ(と思うんだけど)。
    生徒に対しては、高圧的にならず、生徒の意思を尊重し、その背中を押す。
    弱点らしき、弱点も表向きは見当たらず、言うなれば劇中で「最強」の存在が青木だと私は思う。

    とは言え、彼もまた人の子である。
    じゅうごを励ます練習をする彼の姿からは、いつもの堂々たる気配は感じられない。
    彼もまた、悩み苦しみ、自分を時には偽りながら、生きているのかもしれない。

    彼は恐らく、教師たるもの、弱い姿を見せてはならぬと思い定めているのだろう。
    だからこそ、彼は堂々と生きている。
    きっとそれが彼にとっての理想の教師像なのだ。
    だが、その隙のなさ、教師たらんとする姿が、生徒諸君には鼻持ちならないのだろう。

    もしも、彼が、自身の弱い姿をもっと他人に見せることができていたら。

    この物語は、あるいは、別の方向に進んでいたようにも思われる。

    彼は忌み嫌われる一方で、弱者からは愛される。
    孤立しがちな西野然り、殺人を犯したかもしれない弟を思う一美然り。

    じゅうごにとって、青木というのはいかなる存在だったのだろう。
    青木の特異性は、じゅうごにとって、ある意味、尊敬の対象であったように私は思う。
    ことによると、西野に対しての好意に近いものだったかもしれない。

    そんな青木に彼は認められたかったのかもしれない。
    青木からすれば、じゅうごにはもっともっと高いところを目指し、そして、目指し
    続けてほしいのだと思う。
    だからこそ、彼はじゅうごに対して、去年以上の自由研究を要求する。

    じゅうごからすれば、それは不満だったのだろう。
    彼はその時点でのベストを尽くしている。
    すなわち彼の中では完結した頂点、最強の位置に達している。
    にも関わらず、青木は現状を評価しつつも、更なる高みを要求する。

    青木は恐らくじゅうごに対して、その時点での100点を与えている。
    だからこそ、彼はじゅうごの成長を見込んで、その上を求める。

    じゅうごにはきっとそれは分からない。
    100点は取った。もうそれで完結だろう。
    上を目指せということは、彼にとって100点を与えられたことにはならない。

    「最強」の定義を問われた青木は「自由であること」と答える。

    最強の研究は、すなわち自由の研究。
    青木がいる限り終わらない自由研究。
    自由研究を終わらせることで得られる自由。
    手元には銃。
    自由研究は、銃の研究に。
    そして20年後に迎えることになる『銃「後」の春』。

    ちょっとした認識の違い、定義の違いが、いたるところでぶつかり合い、
    大きなうねりとなっていく。

    この物語は、そんなうねりにさらわれた、とある日常の物語なのかもしれない。

    「銃後の春」を迎えたとき、青木は自身の義弟にどんな言葉をかけるのだろう。

    この時ならば、さんじゅうごは、青木の言葉を受け入れられるような気がしている。

    青木を演じる山田さんにも残念ながらご挨拶はかなわず。
    どういう思いで、青木を演じておられたのか聞いてみたい気もするけれど、終演後に
    そこまで頭は働いてないだろうから、きっと聞けなかっただろうな。
    山田さんの演じる青木、好きでした。
    ところで、山田さんはTwitterはやっておられないのかしら。
    どうしてもアカウントを見つけられない。リアルでもSNSでもご挨拶できず、非常に残念。
    いつか劇場でまたお会いしましょう。

    ◎鴻池(大和田あずささん)

    西野に並ぶ強烈な個性を放つ鴻池。

    明るく、一生懸命だが「しくじり」が非常に多い。
    支援するはずの相手に、悩み事を打ち明け、逆に支援されてしまったりしたかと
    思えば、思いやりの深い言葉で、しっかりと支援をしたりもする。

    将来が極めて有望と思われる鴻池は、職務に忠実であろうとしつつも、結果として、
    さんじゅうごに対しては、人として対等に接していく。

    「いまの足元を見ても、ずっと遠くを見ても、怖くなるばっかりです。
     それはみんなそうなんですよ。ちょっとだけ先のことを考えましょう」

    は本作きっての名言で、私も心の中にしっかりと刻ませて頂いた。

    彼女は間違いなく、さんじゅうごを解放しうる存在だった。

    しかし、彼女が意図的、あるいは偶然にはなった一言が、文字通り引き金を
    引いてしまう。

    この時、彼女がどうなってしまったかは、ここでは触れないが、問題はこの後である。

    本作『じゅうごの春』はそのタイトルに様々な意味を含めているように思う。

    じゅうごであり、
    十五であり、
    自由の後であり、
    そして、
    銃を撃った後、すなわち銃後でもあるのだと思う(後方支援を意味する本来の銃後ではなく)。

    だとすれば。

    この物語には続きがある。

    『銃後の春』はやってくるのである。

    それがいかなるものなのかは、私の中では、まだ整理がつかない。

    ただ、鴻池、そして新たに親族となった青木を含めた谷中家の面々が、新たな生き方を
    さんじゅうごに対して示し、彼もまた、それを受け入れているものだと思いたい。

    本作のキーワードでもある「間違い」。

    鴻池はしくじりのデパートである。
    その彼女が、自らのしくじりにより引き金を引かせるのは、何という皮肉だろうと、
    感想を書き始めた当初は思ったが、ここにきて、その思いも変わりつつある。

    劇中、鴻池を含めて、多くの人物が自らの「間違い」について言及する。
    そうした「間違い」の積み重ねが、大きく人生を歪めてしまう事を、本作では
    示唆しているようにも感じたが、ここにきて、その思いは揺るぎつつある。

    結局のところ、誰一人「間違い」など犯していないのではないか。

    鴻池が「間違い」を犯したとすれば、銃声が響く直前の彼女の言葉だ。
    もしも、彼女が別の言い回しで同じ主旨の表現をしていれば、引き金は
    引かれることはなかったかもしれない。

    彼女は恐らくは意図的にあの表現を使った。
    それは、さんじゅうごの冬が終わり、春を迎えるであろう実感を持ったからだと
    私は思う。

    さんじゅうごもまた、同じ実感はあったろう。
    この20年で青木を含めた親族以外では、もっとも心を開きえたのは鴻池で
    あっただろうから。

    人は親密になれば、なるほど、相手を乱暴に扱いもする。
    だからこそ、彼は引き金を引いたし、言い換えれば「引けてしまった」のだと
    思う。

    青木に引き金を引けなかった理由は、今でもよくわからない。
    けれど、鴻池に引き金を引けた理由は、ここにきて、ようやく少しわかったような
    気がする。

    「銃後の春」はさんじゅうごが引き金を引いたからこそ、やってくる。
    弾倉に弾が一発だけ残った状態では、春がやってきたのかどうかは分からない。

    さんじゅうご自身が、引き金を引いた後でいうように、数多くの「if」の可能性はある。
    けれど、それこそ「卵が先か鶏が先か」と同じで堂々巡りだ。
    本当のスタートにはたどり着けない。

    劇中の人物のみならず、我々もまた、そういう世界に生きているんだと思う。

    どこにでもある、ありふれた日常。

    誰が何を間違えたのか、誰が正しかったのか。
    誰だって、わざと間違えようと生きているわけじゃない。
    誰かの間違いは、誰かにとっての正解で、逆もまた然りだろう。

    すべての人が100点を付けられる回答は存在しない。

    今だって、きっと、どこかで銃声は響いている。

    演じられた大和田さんには稲波さんと揃ってご挨拶をさせていただいた。
    時間切れになってしまったので、あまり、お話は出来なかったが、鴻池という
    役をどういう思いで演じられたのだろうか。

    いずれにしても、素晴らしい演技であったと思う。
    西野が台本以上に西野であったように、鴻池もまた、台本以上に鴻池であったように思う。

    本作全般に言えることだが、コミカルな面と、シリアスな面のギャップが非常に
    激しい。
    それがやみ・あがりシアターさんの特徴なのだろうけれど、演じる方は大変だろうなと
    素人ながらに感じる。

    登場から中盤までの鴻池は、非常に愛らしく、鴻池が登場するだけで、場が温まるような
    気もしたが、中盤以降、核心に迫っていくシーンでは、張り詰めた緊張感とともに、別人の
    如き鴻池が現れる。

    自由研究、観察日記を読み上げるシーンは圧巻。
    その文章の美しさもさることながら、大和田さんの読み上げ方も良かったし、きれいだった。
    ノートの落とし方、そのテンポ、何もかもがピタリとはまっているような感じだった。

    そして、最後のシーン。というか、その直前。

    さんじゅうごに対して、春の訪れをやさしく語るシーンは鴻池の持つ人間性を余すところなく
    表現されていて素晴らしかった。

    私としては泣く準備は整いつつあったが、銃声が響いたので、驚きのあまり引っ込んでしまったけれど。
    鴻池…大好きです。

    ◎脚本・演出 笠浦静花さん

    開演前、前説と合わせて、エアコンの風など細かいことを気にかけてくださった女性がいた。
    ずいぶん、色々なところに気を配って頂いているなと思っている内に開演。

    そして終演後の挨拶にもご登場。
    挨拶の最後に名前を名乗り、さっとロビーへ去っていく。

    それが笠浦静花さんだった。

    ぜひともご挨拶申し上げたかったが、役者様へのご挨拶に時間をかけすぎた上に、
    帰り際もお取込み中だったので、目礼すらかなわず劇場を後にしてしまった。

    あろうことか、アンケートまで持ち帰ってきてしまい、誠に申し訳なかったのだが、
    代わりにcorichさんに感想を記載させて頂いている。

    終演から時間が経てば経つほど、この演劇の凄さを実感している。
    冒頭でもふれたように、その感覚はまさしく「戦慄」と言って良い。

    ここで書かせて頂いた感想は、私自身の解釈であり想像である。
    それが笠浦さんの思いと、どれほどの差異があるかは、それこそ想像するほかはない。

    だが、私の解釈がどうのこうのいうことは、全くどうでもいいことで、私は、
    自身がこれほどまでに何かを真剣に考えるきっかけになった演劇を作って頂いた
    笠浦さんに、最大限の感謝を申し上げたい。

    言葉は悪いが、いいように笠浦さんの手玉に取られた思いである。

    谷中家の一間を模した舞台は、小劇場のそれらしく、開演から終演までそのセットが
    入れ替わることは無い。

    それを逆手に取り、時系列の異なる人物、すなわち、じゅうご、にじゅうご、さんじゅうごを
    同時に出演させることで、観客側の観ている時系列を混乱させるその手法は実に見事だった。

    鴻池が観察日記を読み上げるシーンでは、時系列は新しいものから読み上げられる。
    観客が理解しやすいのは、間違いなく、古い順に読み上げることだ。
    それを敢えて逆から読み上げさせたのは、意図あってのことであろうと思っている。
    「多分こういうことだろう」というのはあるけれど、間違ってたら恥ずかしいから言わない。

    照明の使い方も実に巧みで、特にさんじゅうごと鴻池が話をするシーンで使用された
    白色系の光の使い方が素晴らしかった。
    硬くもなく、柔らかくもない光だが、そこで浮かび上がる陰影は、場の緊張感と、
    静かな冷たさ、そして、なにか、背筋に寒いものが走るような不気味さを増幅し、
    強烈な引力を舞台から放っていた。

    何もかもが本当に素晴らしかったです。
    自由研究で作られた緞帳、ゆっくり見たかったな。

    劇団関係者の方、役者の皆様。
    素晴らしい作品を本当にありがとうございました。

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    2019/10/22 00:27

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